漆谷郡
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慶尚北道 漆谷郡架山山城の鎮南門
位置

各種表記
ハングル:???
漢字:漆谷郡
日本語読み仮名:しっこくぐん
片仮名転写:チルゴク=クン
ローマ字転写 (RR):Chilgok-gun
統計
面積:451 km2
総人口:124,568人(2013年12月末) 人
行政
国: 大韓民国
上位自治体:慶尚北道
下位行政区画:3邑5面
行政区域分類コード:?
漆谷郡の木:イチョウ
漆谷郡の花:ウメ
漆谷郡の鳥:シラサギ
自治体公式サイト: ⇒漆谷郡
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漆谷郡庁

漆谷郡(チルゴクぐん)は大韓民国慶尚北道の南西部にある郡である。大邱広域市に隣接し、洛東江両岸の平野では近郊農業や畜産業が営まれるほか、大邱広域市、亀尾市へ通勤するためのベッドタウン化が進んでいる。また繊維取引の多い大邱市と電子工業の盛んな亀尾市に接するため、繊維工場や電子部品工場が多く、高速道路を生かした内陸の物流拠点ともなっている。

中心地は倭館邑。郡の名の由来となった漆谷邑は現在、大邱広域市北区に編入されている。

朝鮮戦争では1950年夏の釜山橋頭堡の戦いの激戦地となった。倭館は洛東江防御線の要地であり、北朝鮮軍と国連軍が争奪する前線となった。架山面の多富里は北の安東方面から大邱へ続く山道が通る谷間で、ボーリング場の戦い(多富洞の戦い)と呼ばれる熾烈な戦闘が行われた。
目次

1 歴史

2 行政

2.1 行政区域

2.2 警察

2.3 消防


3 交通

3.1 鉄道

3.2 バス

3.3 高速道路


4 脚注

5 外部リンク

歴史 朝鮮戦争時に撮影された倭館付近の洛東江の橋梁

1914年4月1日 - 郡面併合により、仁同郡が漆谷郡に編入し、郡庁が倭館面に設置。漆谷郡に以下の面が成立。[1][2](9面)

仁同面・北三面・若木面・倭館面・石積面・架山面・東明面・枝川面・漆谷面

朝鮮総督府令第111号 

改編前改編後(漆谷郡)
仁同郡邑内面、北面仁同面
仁同郡文良面、長谷面、石赤面石積面
仁同郡若木面、岐山面若木面
仁同郡北三面北三面
仁同郡東面架山面
漆谷郡東北面
漆谷郡巴弥面、盧谷面倭館面
漆谷郡退川面、八事ハ、文朱面漆谷面
漆谷郡西北面、下北面東明面
漆谷郡上枝面、道村面、伊彦面枝川面


1949年8月13日 - 倭館面が倭館邑(朝鮮語版)に昇格。[3](1邑8面)

1950年8月17日 - 倭館邑の丘(303高地)で303高地の虐殺が起こった。

1973年7月1日 - 北三面洛渓洞が善山郡亀尾邑に編入。[4](1邑8面)

1974年11月1日 - 若木面に竹田洞・平福洞・永洞・杏亭洞・鳳山洞・角山洞を管轄する東部出張所を設置。(1邑8面)

1978年2月15日 - 仁同面を新設の亀尾市に編入。[5](1邑7面)

1980年12月1日 - 漆谷面が漆谷邑に昇格。[6](2邑6面)

1981年7月1日 - 漆谷邑が大邱直轄市北区に編入。[7](1邑6面)

1983年2月15日(1邑6面)[8]

北三面呉太洞が亀尾市に編入。

星州郡船南面老石洞が若木面に編入。

石積面牙谷洞が倭館邑に編入。

石積面黄鶴洞が枝川面に編入。


1986年4月1日 - 若木面東部出張所(竹田洞・平福洞・永洞・杏亭洞・鳳山洞・角山洞・老石洞を管轄)が岐山面に昇格。[9](1邑7面)

1987年1月1日 - 善山郡長川面石隅洞が架山面に編入。[10](1邑7面)

1989年1月1日 - 架山面新長里が善山郡長川面に編入。[11](1邑7面)

1998年5月1日 - 架山面下板里が松鶴里に改称。[12]

2003年7月1日 - 北三面が北三邑に昇格。[13](2邑6面)

2006年10月1日 - 石積面が石積邑(朝鮮語版)に昇格。


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