漆生線
[Wikipedia|▼Menu]

漆生線
概要
現況廃止
起終点起点:下鴨生駅
終点:下山田駅
駅数5駅
運営
開業1913年8月20日 (1913-08-20)
廃止1986年4月1日 (1986-4-1)[1]
所有者鉄道院→鉄道省
運輸通信省運輸省
日本国有鉄道
路線諸元
路線総延長7.9 km (4.9 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化全線非電化

路線図


テンプレートを表示

停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例


0.0下鴨生駅


後藤寺線


1.2鴨生駅


3.6
0.0*
漆生駅


1.0*稲築駅


5.1才田駅


上山田線


6.2嘉穂信号場


7.9下山田駅


上山田線

漆生線(うるしおせん)は、福岡県嘉穂郡稲築町(現・嘉麻市)の下鴨生駅から福岡県山田市(同じく現・嘉麻市)の下山田駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線地方交通線)である。全線が福岡近郊区間に含まれていた。

1980年国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、1986年4月1日に廃止された[1]。当初は、第1次廃止対象であったが、漆生駅 - 才田駅間のやや才田駅寄りの沿線に建設される住宅団地(大坪団地)によって乗降客の増加が見込まれるとして第2次廃止対象とされた経緯がある。

なお、第2次特定地方交通線(全31線区)で、最初に廃止された路線でもあった。
路線データ

区間(
営業キロ

下鴨生 - 下山田 7.9km(嘉穂信号場 - 下山田 (1.7km) は、上山田線と重複)

漆生 - 稲築 1.0km


軌間:1067mm

駅数:5駅(全線廃止時点。起終点駅含む。他に信号場1)

複線区間:全線単線

電化区間:全線非電化

閉塞方式

歴史漆生線さよなら列車のヘッドマーク(イベント時に撮影されたもので実際のさよなら列車に充当された車両は異なる)

漆生線は、明治時代に建設された漆生以北と、太平洋戦争後に建設された漆生以南に分かれる。

漆生以北の区間は、三井鉱山山野炭鉱や同漆生炭鉱から産出される石炭の搬出のために建設されたもので、現在の後藤寺線の区間の一部を含む山野分岐点 - 芳雄(現在の新飯塚) - 山野間の貨物線が、1902年に九州鉄道の手により、九州鉄道買収国有化後の1913年には、筑豊本線の貨物支線として上三緒 - 漆生間が開業している。

1920年に旅客営業を開始するのと同時に、芳雄 - 漆生間、上三緒 - 山野間が漆生線となった。1943年には、赤坂(現在の下鴨生) - 起行間の産業セメント鉄道戦時買収され、漆生線の芳雄 - 赤坂間、上三緒 - 筑前山野間を分離して産業セメント鉄道買収区間及び田川線の後藤寺 - 起行間(貨物支線)と併合し後藤寺線とした。この時に漆生線は後藤寺線の支線格となっている。

漆生以南の区間は、筑豊地区の炭鉱から産出される石炭を苅田港へ効率的に運ぶために計画された短絡線である油須原線の一部として建設された区間で、1966年、上山田線の上山田 - 豊前川崎間と同時に開業している。しかし、同区間では結局貨物営業は実施されず、油須原線の計画自体も頓挫。旅客列車は上山田線と一体の運行で、開業当時5往復設定された[2]。しかし、1967年10月ダイヤ改正時点では上下とも夜の1本が削減されて4往復[3]1972年3月ダイヤ改正時には下りは午後の1本、上りが夜の1本が1967年10月時点より削減されて上下とも朝2本、夕方1本の運行となり[4]、以後全廃までその状態で推移した。そのような列車ダイヤであったため、才田駅から通学する小学生は登校時にしか漆生線を利用できず、下校時は西鉄バス(現・西鉄バス筑豊)の大坪団地バス停から2キロ程歩かなくてはならなかった。

さらに炭鉱の閉山に伴い漆生線、上山田線共々1984年に第2次特定地方交通線に指定され、廃止されることとなった(上山田線の廃止は、九州旅客鉄道(JR九州)に移管された後の1988年9月1日)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef