滝沢洋一
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滝沢 洋一(たきざわ よういち、英語表記:Yoichi Takizawa 中国語繁体字)表記:瀧澤洋一、1950年昭和25年3月9日 - 2006年平成18年4月20日)は、日本シンガーソングライター作曲家音楽プロデューサー。日本の音楽業界で初めて「ニューミュージック」という言葉を公共の電波に乗せた人物と言われている[1]。なお、同姓同名の霊能者、アニメ関係者はそれぞれ別人物。
来歴

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2021年6月)

1950年3月9日、外交官をしていた父のもとに生まれる。生後まもなくアメリカオレゴン州ポートランドに移住、帰国から4年ほどして、今度は4年間イランテヘランに居住。ポピュラー音楽好きの父親に着いての海外生活の体験で、洋楽センス溢れた曲作りを身につける。1961年〈昭和36年〉、小学5年生のときに帰国し日本に定住。

1965年頃、中学生のときにビートルズに影響を受けてギターを始める。玉川学園高等部時代にフォーク団体「MRA」(マイク眞木などが所属)に加入。このMRAで歌手のロビー和田と知り合い、ソングライターとしての才能を認められて一目置かれる存在に。その後、同高等部で音楽グループ「TLMS(玉川ライトミュージックソサエティー)」を結成し、ジャンルにとらわれない音楽活動をおこなう。

1969年頃、玉川大学に進学し、スキーにハマって音楽を一時的にやめる。スキーのインストラクターの資格を取得。

1970年代前半、B型肝炎による肝臓疾患のため入退院を繰り返し、スキーの道を断念。病室でラジオから流れる音楽を聴いて魅了され、ロックでもフォークでもない音楽を趣味で作曲し始める。その後、RCAレコードのプロデューサーになっていたロビー和田にデモテープを持ち込み、1974年に作詞・作曲を担当した楽曲「一人ぼっちの君」が、チャコとヘルス・エンジェルのシングル「嘆きの指輪」(JRT-1401)B面に収録され、作曲家デビュー。

1975年、新宿区市ヶ谷にあった、外交官の親が海外に赴任している間に住める学生寮「子弟育英寮」に居住してた頃、慶應義塾大学の黒人文化研究会というサークルのディスコバンド「ファライースト」のトランペット担当で同じ寮に暮らしていた後輩の有本俊一が、ファライーストのメンバーだった新川博キーボード)、ファライーストでドラム担当の長谷川康之と一緒にバンド「バッド・シーン」を組んでいた牧野元昭ギター)、高校生でファライーストのボーヤだった青山純(ドラム)、そして新川の幼馴染で中古のフェンダー・ジャズ・ベースを持っていた村上“ムンタ”良人(ベース)の4人を紹介する。

この4人をメンバーに滝沢のバックバンドを結成(まだ名前は無かった)。翌1976年1月22日、RCAレコードのディレクター・岡村右のプロデュースで銀座音響ハウスにてデモテープ録音が行われるが、これを最後に村上が脱退。そこで、前述のファライーストでベースを担当していた伊藤広規が、新川からの誘いで二代目ベーシストとなる。東京・六本木のカレー店「デリー」にて、滝沢がバックバンド名を「マジカル・シティー」と命名する。

1976年冬、志賀高原丸池スキー場」の志賀ハイランドホテルで、「滝沢洋一とマジカル・シティー」が、ラジオの公開録音のためのライブを敢行。そのとき滝沢が、司会者からのインタビューで「ニューミュージック」という言葉を日本で初めて公共の電波に乗せた、とバンド仲間の牧野が証言している[1]

その後、ロビー和田、岡村右のプロデュースにより、目黒・モウリスタジオなどで「滝沢洋一とマジカル・シティー」のデモテープを録音。「最終バス」「僕が年をとったら」「東京音楽祭(のちに「マリーナ・ハイウェイ」と改題され詞も変更)」などの曲が録音された。

1976年、アルファレコード創始者で作曲家の村井邦彦の経営する音楽出版社「アルファ・ミュージック」に、ロビー和田が「最終バス」の入ったデモテープを持ち込んだところ、同社入社2年目の粟野敏和の耳にとまり、アルファと作家契約を結ぶことに(のちに、アルファ関連の音楽出版社ケイ・ミュージック・パブリッシングと契約)。バックバンドの「マジカル・シティー」には、アルファから広谷順子や滝沢のデモテープ録音の仕事が「月5万円」のギャラで与えられた。同年、ハイ・ファイ・セットのバックバンド「ガルボジン」の代わりに、「マジカル・シティー」がコンサートのバックを任される(小坂明子田山雅充などのバックも担当)。しかし、1976年いっぱいで新川が脱退、松任谷正隆とバトンタッチする形で「ガルボジン」に移籍した。

1977年、コーラスグループのハイ・ファイ・セットに「メモランダム」(なかにし礼・作詞)を提供し、東芝EMIのヒット賞を受賞。滝沢の代表曲となる。

1978年10月5日、原盤制作会社アルファ・アンド・アソシエイツ制作で、東芝EMIよりファースト・ソロアルバム『レオニズの彼方に』発売。参加ミュージシャンは、佐藤博(キーボード、全曲アレンジ)、村上秀一(ドラム)、林立夫(ドラム)、青山純(ドラム)、鈴木茂(ギター)、松木恒秀(ギター)、松原正樹(ギター)、鳥山雄司(ギター)、牧野元昭(ギター)、松岡直也ピアノ)、高水健司(ベース)、伊藤広規(ベース)、ジェイクHコンセプションアルトサックス)、ペッカーパーカッション)、浜口茂外也(パーカッション)など。

この前後より、作曲家としての活動を本格的に開始。主にアルファレコードのプロデューサー・有賀恒夫からの依頼で、いしだあゆみブレッド&バターサーカス、ハイ・ファイ・セットらに曲を提供した他、清野由美、小室みつ子伊東ゆかりビートたけし小泉今日子松本伊代岩崎宏美西城秀樹石川秀美山下久美子富田靖子須藤薫らに100曲以上の曲を提供している。


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