滝沢一
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滝沢 一
たきざわ おさむ
誕生
1914年11月10日
日本 大阪府大阪市
死没 (1993-07-11) 1993年7月11日(78歳没)
日本 京都府京都市
職業映画評論家ジャーナリスト脚本家
国籍 日本
ジャンル映画評論、映画ジャーナリズム、映画脚本
主題『通信合同』の発行
伊藤大輔山中貞雄研究
ウィキポータル 文学
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滝沢 一(たきざわ おさむ[1]1914年11月10日[2] - 1993年7月11日[3])は、日本の映画評論家ジャーナリスト脚本家である。株式会社通信合同社代表。中川信夫との共同のペンネームは猿沢 丈介(さるさわ じょうすけ)。リアルタイムで作品を追い続けた、伊藤大輔山中貞雄研究の第一人者である[3]
人物・来歴

1914年(大正3年)、大阪市に生まれる[2]。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)卒業[2]

1933年(昭和8年)、マキノ・プロダクションの元宣伝部長・都村健らとともに、京都に合同通信社を興す[4]。同社がのちに株式会社通信合同社となる[4]

1935年(昭和10年)、前年に市川右太衛門プロダクションに入社した、9歳上の友人・中川信夫と共同で脚本を執筆、『恥を知る者』『御用唄鼠小僧』を中川が監督した。

1951年(昭和26年)『わが一高時代の犯罪』映画化にあたり、高木彬光に代わって岡田茂東映プロデューサーと映画化権料交渉を行う[5]、以降岡田と交流を持つ[5]

1970年(昭和45年)前後に東映京都撮影所大部屋俳優たちが結成した「ピラニア軍団」に同社の映画監督深作欣二中島貞夫らとともに加担、相談役を務めた。1971年(昭和46年)、都村健が企画、御園京平が編集した牧野省三とその映画を回顧する書物『回想・マキノ映画』に『牧野省三評伝その人と業蹟』を寄稿する[6]。1973年(昭和48年)には、山中貞雄の監督デビュー作『磯の源太 抱寝の長脇差』をモチーフに、マキノ雅弘と共同でテレビ映画長谷川伸シリーズ』の第23話『抱き寝の長脇差』の脚本を執筆した。

キネマ旬報社が刊行した1976年(昭和51年)の『日本映画監督全集』、1979年(昭和54年)の『日本映画俳優全集・男優編』、1980年(昭和55年)の1980年『日本映画俳優全集・女優編』の執筆に参加、大きな資料を残す。1982年(昭和57年)、都村が死去、滝沢が通信合同社代表となる。同年、友人の中川信夫の復帰作にして遺作『怪異談 生きてゐる小平次』の製作に「企画」として参加する[7]。中川は1984年(昭和59年)に没し、1987年(昭和62年)、山根貞男と共著で亡くなった友人についての著書『映画監督 中川信夫』を上梓する。またこのころ、竹中労らとともに山中貞雄の命日の集い「山中忌」を差配した。

1993年(平成5年)7月11日、京都市内の病院で脳梗塞のため死去した[3]。満78歳没[3]。最後に執筆した遺稿は、同年の『キネマ旬報』1112号(1993年8月下旬上半期決算号)に掲載された『私の伊藤大輔』である[8]。没後の同年、第35回牧野省三賞特別賞を受賞した[9]
フィルモグラフィ

『恥を知る者
』、監督中川信夫、原作海音寺潮五郎市川右太衛門プロダクション、1935年 - 脚本・中川信夫と共同の猿沢丈介名義

『御用唄鼠小僧』、監督中川信夫、市川右太衛門プロダクション、1935年 - 原作・脚本・中川信夫と共同の猿沢丈介名義

『海賊旗吹っ飛ぶ』、監督辻吉郎マキノ真三、原案絲屋寿雄・小倉浩一郎、松竹京都撮影所、1943年 - マキノ真三と共同脚本

長谷川伸シリーズ』、第23話『抱き寝の長脇差』、監督松尾正武テレビ映画、1973年 - マキノ雅弘と共同脚本


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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