滝山寺
本堂(重要文化財)
所在地愛知県岡崎市滝町山籠107
位置北緯34度59分17.37秒
東経137度12分20.26秒
滝山寺(たきさんじ)は、愛知県岡崎市滝町にある天台宗の寺院。山号は吉祥陀羅尼山。院号は薬樹王院。滝山寺鬼まつりで有名。
滝山東照宮が隣接している。 『滝山寺縁起』(現存するものは近世の写本、以下『縁起』と略称)によれば、 奈良時代、 天武天皇の命で役行者(役小角)が青木川
目次
1 歴史
1.1 近年
2 文化財
2.1 重要文化財(国指定)
2.2 愛知県指定有形文化財
2.3 愛知県指定無形民俗文化財
2.4 岡崎市指定有形文化財
3 滝山寺鬼まつり
4 交通アクセス
5 参考文献
6 脚注
7 外部リンク
歴史
『縁起』によれば保安年間(1120年 - 1123年) 天台宗の仏泉上人永救(えいぐ)が地元の豪族物部氏の保護を受けて本堂を建てるなどして再興、次いで熱田神宮大宮司藤原南家を檀越に迎えることで寺勢はいよいよ興隆した。永救は加賀国出身で比叡山で修業したのち、布教のため三河の地に渡ったとされる人物で、この12世紀の僧永救の再興により、山岳信仰の場であった吉祥寺が、天台寺院としての形態を整えたものと思われる。
平安時代末期から鎌倉時代初期の住職であった寛伝(1142年?1205年)は、熱田大宮司藤原季範の孫で、将軍源頼朝の従兄弟であったため、頼朝による大伽藍の造立がなされるなど、鎌倉幕府の庇護を受けた[1]。寛伝は足利氏宗家初代当主足利義康の義兄弟でもあり、頼朝の強い推挙によって足利氏本拠地である下野の日光山満願寺座主を一時的に務めたものの、衆徒との関係が悪化し2ヶ月で三河へ戻った。現在寺に伝わる聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、『縁起』によれば頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)、寛伝が頼朝追善のため仏師運慶・湛慶父子に作らせたものといい、様式的にも運慶一派の作として認められている[2]。
その後、藤原季範の子孫にあたる三河守護足利氏の保護を受けた。12世紀に三河国司藤原憲長と滝山寺の間で、阿知和郷の帰属が争われたが、熱田大宮司の藤原範忠により、滝山寺領として定められた。歴代この地の有力者に庇護され、他にも、滝村、米河内村などを寺領とし、鎌倉時代に412石を得ていた。貞応元年(1222年)、足利家3代目当主足利義氏が本堂を造立[3]。
南北朝時代には 足利尊氏の庇護を受け、重要文化財の本堂が作られた。しかし、臨済宗を重視する室町幕府の方針の影響などで、やがて滝山寺の勢力は衰え、戦国時代に寺領は諸勢力に侵された[4]。
近世初期には 徳川家康の庇護を受け、412石を得て復興。徳川幕府3代将軍徳川家光の治世に寛永寺を創設した天海の弟子亮盛が寛永寺の子院であった青龍院住職と兼務する形で、滝山寺住職を務め、以降滝山寺の勢力が増した。正保3年(1646年)10月18日、徳川家光の命により、岡崎城鬼門にあたる滝山寺境内に滝山東照宮が創建され[5]、200石の加増を受けた。