中華人民共和国 山東省 滕州市
滕州東駅構内滕州東駅構内
旧称:蕃県・滕県
棗荘市中の滕州市の位置棗荘市中の滕州市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度5分18秒 東経117度9分10秒 / 北緯35.08833度 東経117.15278度 / 35.08833; 117.15278
滕州市(とうしゅう-し)は中華人民共和国山東省南部の棗荘市にある県級市。山東省および中国全土でも人口が最も多い県級行政区(県級市)である。歴史は古く、周代の諸侯国である滕国(とうこく)がこの地にあった。
地理に臨む。市域の地勢は比較的平坦である。年平均気温は13℃、年平均降水量は773mm。
滕州は山東省の重要な食糧生産地で、主な作物はコムギやトウモロコシなど。
滕州市域内は石炭資源が豊富で、埋蔵量は60億トンに達し山東省でもトップクラスにある。ただし石炭採掘に関わる問題も起きている。 上古および周代のこの地には滕・薛・?・小?の各諸侯国があった。滕の国都の滕城は現在の滕州市街地の近くにあり、薛の国都の薛城の遺跡は滕州市街地の南30kmほどの場所に現存する。 滕州の市域内からは多くの偉人が輩出された。戦国時代の思想家・軍学者で墨家学派の始祖でもある墨子の出身地については諸説あるが、現在の滕州市にあたる?国の「濫邑」という説がある。戦国四君の一人孟嘗君は父の田嬰が薛に封じられていた際に生まれたとされる。春秋時代末期に様々な建築用具を発明したとされる工匠の師祖の公輸盤(魯班)の故郷についても滕州にあったという考証がなされている。平原君の食客であった毛遂の生地説もあり[2]、墓も滕州市域内にある[3]。 秦に滕県が置かれ、漢にいったん蕃県と改名されたものの、隋に滕県が復活し、以来この名で呼ばれてきた。1988年に県が廃止され滕州市が設置された。 滕州付近は黄河文明の栄えた地で、先史時代より文化が発達していた。紀元前6000年ころの竪穴建物跡や土器が市の北辛街道から出土しており、この時期の文化は北辛文化と呼ばれる。 伝説では、三皇五帝の内の炎帝(神農氏)と黄帝が戦い炎帝が敗れた後、東へ進んだ黄帝は第十子を滕に封じたという。紀元前1046年、周の武王は弟の錯叔?を滕に封じ、以来31代に亘り周王室の同姓である姫姓の王が続いたが、越王勾践により紀元前414年に滅ぼされた。戦国時代、滕の文公が王であった時期は孟子の助言に従いながら政治を行い卓抜した実績を挙げたため、「善国」と呼ばれていた。秦の始皇帝が戦国を統一した後は郡県制がしかれ、滕国および薛国はそれぞれ、滕県と薛県となった。 前漢初期、高祖は滕県を蕃県に改め、武帝は公丘県を置きました。北魏は公丘県を廃止して陽平県を置き、北斉は陽平県・薛県・合郷県・昌慮県・永興県・永福県の6県を蕃県に編入した。また沛県・高平県・南武陽県などの一部も蕃県に編入している。 隋の開皇6年(586年)、文帝は蕃県を滕県に改名した。開皇16年(596年)にはさらに滕郡に昇格したが、後に滕県に戻っている。唐の太宗李世民は弟の李元嬰を滕王とし滕に封じた。
歴史
上古から隋まで
隋唐から明清
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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