滑空
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この項目では、航空機の滑空について説明しています。生物の滑空については「」をご覧ください。

滑空(かっくう、: Gliding)とは、主にグライダー(滑空機)、ハンググライダーパラグライダーなどの空気より重い航空機(重航空機という)の降下飛行を指す[1]
概要

技術的に言えば、上記の各機種はレクレーションのために滑空または滑翔(ソアリング)を行うグライダーの型式の差に過ぎず、海上の潮風の中でセールボートとウイングサーフィンが区分されているのと同じである[2]
滑翔(ソアリング)

滑翔(ソアリング)」とは、正確には、航空機が上昇気流によって高度または速度を増加する状況を指す。

本項において「滑空(グライディング)」という言葉は、グライダーのスポーツ目的の飛行だけを示す。ハング・グライディングについては「ハンググライダー」を、パラグライディングについては「パラグライダー」を参照

ソアリングを行う条件が充分に良いときには、熟練したパイロットならば、出発点から片道数100 kmの飛行を行い、帰還することが出来る。時として飛行距離は1,000 km以上に達する[3]。ただし、天候が悪化すると、どこかに着陸しなければならなくなるが、モーターグライダーならばエンジンを再始動すればそれを免れることが出来る。

グライダーパイロットの多くは単に飛行の達成感を満喫するだけであるが、競技派のパイロットは定められた周回コースの飛行を指向する。このような競技では、パイロットの飛行技術と同時に、気象条件を利用する技能が試される。

多くの国で、地区競技・全国競技が開催され、1年おきに世界滑空選手権が開催されている[4]。詳細は「滑空競技」を参照

動力付き航空機(飛行機など)とウインチの2つが、グライダーを発航させる主要な手段である。モーターグライダーの自力発航を除き、上記及びその他の発航手段は、いずれもパイロット以外の要員の助力を必要とする。グライダークラブは飛行場と設備の区分利用と、新人の養成と、高度の安全性を維持するために設立されている。
歴史

重航空機の発達は、ジョージ・ケーリー卿の御者が飛行した1853年から、ライト兄弟に至る半世紀間に、主としてグライダーによって為された。詳細は「飛行機の歴史」を参照
ヴェルサイユ条約

ただし、スポーツとしての滑空(グライディング)は、第一次世界大戦後に初めて、ヴェルサイユ条約が原因で始まったものである[5]

同条約は、ドイツに対して単座航空機の製造・飛行を厳しく制限した(ヴェルサイユ条約#軍備条項)。その結果、1920?30年代には、世界各国の航空界が飛行機の性能向上を進めたのに対して、ドイツは効率の高いグライダーの設計や飛行の向上に努め、より遠く早く飛行するために自然力の利用を指向した。この活動は、将来の再軍備の布石として、時の政府に後押しされていた。後年、第三帝国ジュネーブ条約を破棄して第二次世界大戦準備に進んだとき、グライダーの研究と訓練は熟練した軍用機の航空要員の供給源となり、中にはエース・パイロットになった者が何人もいる。詳細は「ドイツ空軍#ドイツ帝国軍航空隊」を参照
1920年代

ドイツの第1回滑空競技は、1920年[6]ヴァッサークッペ(Wasserkuppe)で[7]、オスカー・ウルジヌス(Oskar Urusinus)の計画・指導の下に行われた。最高記録は2分間で、距離の世界記録2 kmを樹立した[6]
1930年代

10年の間に、滑空競技は国際的な行事になり、滞空時間や飛行距離は著しく向上した。1931年には、ギュンター・グレンホフ(Gunter Gronhoff)がミュンヘンからチェコスロバキアまで272 kmを飛行し、更に飛べる余裕があった[6]

1930年代には、滑空活動は世界各国に普及した。1936年夏季オリンピック(ベルリン)では、滑空はデモンストレーション競技になり、1940年(東京の予定)には正式競技になる計画であった[6]。ドイツでは、それに備えてオリンピック用のグライダーを開発したが第二次世界大戦によって中断した。

1939年までの主要なグライダーの記録は、ロシア人によって保持され、距離は748 kmに達した[6]
1940年代

1940年代、つまり第二次世界大戦中は、ヨーロッパにおける民間の滑空活動は、大部分が中断された。軍用グライダーによる作戦行動が行われたが、これらは滑翔ではなく、滑空スポーツとは無関係である。しかしながら、エーリヒ・ハルトマン(Erich Hartmann)をはじめドイツの戦闘機のエース・パイロットに、グライダー訓練の経験者が数人含まれている。詳細は「エース・パイロット#第二次世界大戦」を参照
1950年代

1950年代には、多くの国々で、大勢の訓練を経たグライダー・パイロットが飛行を続けたがっており、その多くは航空技術者でもあった。彼らは、グライダーの飛行クラブと製作所を共に発足させ、その中には現在まで存続しているものもある。

この動きはグライダーと滑空活動を共に活性化し、アメリカ滑空協会のメンバー数を1,000名から現在の12,500名まで成長させた。グライダー・パイロット人口の増加・知識の拡大・技術の発展は、新記録の樹立に貢献し、戦前の高度記録は1950年までに倍増し、飛行距離1,000 kmの大台は1964年に突破された[6]
現代

ガラス繊維強化プラスチック炭素繊維強化プラスチックのような新素材は翼の平面形や翼断面を進歩させ、電子装備G.P.S.、天気予報が発達したので、従来は特別な例とされたような高い水準の飛行を、多くのパイロットが達成するようになった。2006年現在では500人ものパイロットが1,000 kmの飛行を行っている[8]

滑空スポーツの発祥の地であるドイツは、現在でも中心地であり、世界のグライダー・パイロット人口の30 %を擁し、3大グライダー・メーカーが存在する[9]。しかしながら、このスポーツは多くの国々にも取り入れられ、現在11万6,000名のパイロットが活動している[10]。これに加えて軍の教習生が存在するが、人数は不詳である。更に毎年多くの人々がグライダーの初飛行を体験している。
オリンピック競技

滑空競技は2つの理由によって、戦後になってもオリンピック種目に復活しなかった。一つ目は、戦後に残されたグライダーの機数の不足である。また、競技に使う単一の機種の選定に合意が得られなかったこともある。単一機種の指定は、新設計の発展を妨げるという意見もあった[6]

滑空競技などのエア・スポーツをオリンピック種目に復活させる提案は、F.A.I.(国際航空連盟)などの国際組織によって行われたが、一般の理解度が低いので否決されている[11]
世界滑空選手権大会

オリンピック競技に代わるものに、世界滑空選手権大会がある。第1回は、1937年にワッサークッペで開催された。第二次世界大戦以降は2年おきに開催されている[6]

同競技会には、男女を問わないオープン競技が6種目と、女性種目と2つのジュニア種目の計9種目が含まれている。
ソアリング(滑翔)

グライダーは、機体の沈下速度より強い上昇気流の中では、位置エネルギーを獲得しながら何時間も空中に留まることが出来る[12]。通常の上昇気流の源は下記のものである。

サーマル :暖かい空気の上昇気流

斜面上昇 :風が丘の面に吹き付け、上に吹き上げられるときに発生

ウエーブ(山岳波)の上昇 :大気中の定常波、流れの表面の漣のようなもの

グライダーは、斜面上昇では、その地形から600 m以上の高さまで上昇することは、ほとんど無い。サーマルでは、気候と地形にもよるが、平野では3,000 mに達し、山地ではもっと高く上昇する[13]。ウエーブ(山岳波)の上昇では、グライダーが15,447 mまで上昇した[14]

雲の中のような、コントロールできない空域まで上昇することを許す国もあるが、多くの国の場合は雲底に達する前に上昇を止めなければならない。
サーマル(熱上昇気流)


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