滋野 清武
しげの きよたけ
1913年
生誕1882年10月6日
死没 (1924-10-13) 1924年10月13日(42歳没)
所属組織 フランス陸軍外人部隊
最終階級大尉
勲章男爵
レジオンドヌール勲章
クロワ・ドゥ・ゲール勲章
滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 1924年10月13日)は、明治・大正期の飛行家である。父・滋野清彦の男爵を襲爵。フランス陸軍航空隊のエース部隊のパイロットとして活躍しレジオン・ドヌール勲章、クロワ・ドゥ・ゲール勲章を受勲。通称をバロン滋野。 1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として名古屋[1]に生まれた(東京生まれとも[2])。1896年に父を亡くし13歳で襲爵。父の軍功に応えるべく、学習院を中退して広島陸軍地方幼年学校に入学するが、生来芸術家肌であったために神経衰弱を患って中退する。千葉県安房郡館山町上須賀の別荘で遊興したのち、家庭教師だった山田耕筰の勧めで上野の東京音楽学校予科に入学し、本科器楽科でコルネットを習得した。1908年に音楽学校で知り合った子爵清岡公張の三女・和香子と結婚。長女・露子をもうけるも、結婚わずか2年で和香子は病没した[2][3]。和香鳥号に搭乗した滋野清武 1910年12月、妻和香子を亡くした後に渡仏する。本来の目的は音楽を勉強することだったが、パリの音楽学校在学中にライト兄弟たちの活躍による飛行機熱に呑み込まれる[4]。ヴォワザンの飛行学校、次いでジュヴィジーの飛行学校、ドュマゼル・コードロン飛行学校へと転校して操縦術等を学び、1912年1月、フランスで日本人初の万国飛行免状(アエロ・クラブ)第744号[3]を取得する。1912年、自らが設計し、亡き妻の名を冠した飛行機「和香鳥号」と共に帰国する。臨時軍用気球研究会の御用掛として、日本陸軍の操縦将校の教官となるが、徳川好敏大尉との軋轢もあり(滋野の方が飛行技術も教え方もずっと上だったことも、徳川は気に入らなかった)、1914年に再度渡仏して、パリ郊外のファルマン飛行学校に入学した。クロワ・ドゥ・ゲール勲章は1915年創設の戦功勲章 第一次世界大戦の開戦で、フランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉に任命される(陸軍歩兵大尉飛行隊付き[3])。外人部隊第1連隊に入隊後、ポーの飛行学校に編入され、のち追撃隊に所属する。エースを集めたコウノトリ飛行大隊の操縦士としてスパッドVIIに搭乗、主に地上支援で活躍したが、それでも6機程度を撃墜し、この戦争で日本人唯一の、そして日本航空史上最初のエース・パイロットとなる。この戦功が認められ、1915年10月にレジオン・ドヌール勲章とクロワ・ドゥ・ゲール勲章を叙勲した。 滞仏中、戦争未亡人のフランス人ジャーヌ・エイマール(ジャンヌ、Jeanne Aimard)と恋に落ちて(入院先の看護婦とも[5]、カフェのレジ係とも[6]言われる)、1917年10月に結婚し同月病気療養のため飛行隊を離れ、モンテカルロに住んだ[7]。
生涯