溝口健二
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みぞぐち けんじ
溝口 健二
1950年代
生年月日 (1898-05-16) 1898年5月16日
没年月日 (1956-08-24) 1956年8月24日(58歳没)
出生地 日本東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島)
死没地 日本京都府京都市上京区
職業映画監督
ジャンル映画
活動期間1923年 - 1956年
主な作品
瀧の白糸』(1933年)
浪華悲歌』(1936年)
祇園の姉妹』(1936年)
残菊物語』(1939年)
西鶴一代女』(1952年)
雨月物語』(1953年)
山椒大夫』(1954年)
近松物語』(1954年)

 受賞
ヴェネツィア国際映画祭
銀獅子賞
1953年雨月物語
1954年山椒大夫
国際賞
1952年西鶴一代女
ブルーリボン賞
監督賞
1954年近松物語
日本映画文化賞
1956年
その他の賞
毎日映画コンクール
特別賞
1956年

備考
日本映画監督協会会長(1937年 - 1942年・1949年)、同理事長(1950年 - 1955年)
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溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年明治31年〉5月16日 - 1956年昭和31年〉8月24日)は、日本映画監督である。

日本映画を代表する監督のひとりで、1920年代から1950年代にわたるキャリアの中で、『祇園の姉妹』(1936年)、『残菊物語』(1939年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)など約90本の作品を監督した。ワンシーン・ワンショットや移動撮影を用いた映像表現と完全主義的な演出で、社会や男性の犠牲となる女性の姿をリアルに描いたことで知られている。小津安二郎黒澤明とともに国際的にも高い評価を受けており、1950年代にはヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞し、フランスヌーヴェルヴァーグの監督などにも影響を与えた。
生涯
生い立ち

1898年5月16日東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区湯島2丁目辺り)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれた[1][2]。3人姉弟の2番目で、7歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる[3]。父方の祖父の彦太郎は、明治維新後に神田請負業を営み、日清戦争北清事変では軍夫を募集して戦地に送っていた[4]。善太郎は大工[5](屋根葺職人という説もある[6])で、一儲けしようと折からの日露戦争を当て込んで軍隊用雨合羽の製造事業を始めたが、いざ売り出そうとした時に戦争が終結したため失敗した[5]。まさは御殿医の家の娘だったが、夫に忠実に苦労続きの生活に耐え、やがて病に倒れた[1]。善太郎の事業失敗で借財がかさみ、家も差し押さえられたため、1905年に一家は浅草玉姫町(現在の台東区清川辺り)に引っ越した[2]。この時期の溝口家は貧窮のどん底生活を送り、口減らしのために寿々は養女に出された[5]

1905年に溝口は私塾の田川学校に入学し、1907年には近所に開校した石浜小学校へ転入した[2]。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた[7]1911年秋、小学6年生の溝口は岩手県盛岡市の親戚のもとへ預けられ、翌1912年に同地の小学校で卒業するまでの約半年を過ごしたが、盛岡へ預けられた理由は溝口にも分からなかったという[8]。東京の実家に戻ると中学進学を希望したが、父の反対で叶わなかった。養子の口もいくつかあったがいずれも上手くいかず、退屈な毎日を送っているうちにリウマチを患い、約1年間の闘病生活を送った[8]。溝口は一家を貧困に陥れ、母を苦労させた無能力な父を憎むようになり、その関係は悪化していった[7][8][注 1]。この頃、寿々は養家から日本橋の芸者屋に奉公に出され、やがて半玉になると客で子爵の松平忠正に落籍され、妾宅に囲われる身となった(後に正妻となる[注 2][8][11]。一家は寿々からの仕送りによって経済的に支えられ、暮らしも少しは楽になった[2][8]

1913年、溝口は絵を描くのが好きだったことから、浅草の浴衣の図案屋に弟子入りした。同じ図案屋仲間の弟子には、松竹蒲田撮影所の監督で小津安二郎の師匠となる大久保忠素がいた。しかし、浴衣の図案に物足りなさを感じ、日本橋浜町の模様絵師に弟子入りした[8]。この頃、一家は寿々が父の隠居所としてあてがった日本橋新場橋(現在の日本橋と兜町の境)の家へ転居した[2]1914年12月には貧苦の家庭で苦労し続けた母が亡くなり、それにより溝口の父に対する反発はさらに強まった[8][11]。やがて溝口は本格的に画家の道を志し、1916年黒田清輝の主宰する赤坂の葵橋洋画研究所に入り、1年間にわたり洋画の基礎を学んだ[2][注 3]。この頃、研究所近くの劇場ローヤル館ローシーオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたことから、溝口もそれを手伝っているうちにオペラに嵌まり、浅草オペラに通い詰めた[9]


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