源頼義
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 凡例源 頼義
『前九年合戦絵詞』より
時代平安時代中期
生誕永延2年(988年[注釈 1]
死没承保2年7月13日1075年8月27日
享年88[注釈 2]
改名王代丸(幼名)、頼義、信海(法号)
別名伊予入道
墓所大阪府羽曳野市通法寺
官位正四位下左馬助兵庫允左衛門少尉
左近将監民部少輔相模陸奥守
伊予守、鎮守府将軍、薨後贈正三位
氏族清和源氏経基河内源氏
父母父:源頼信、母:修理命婦
兄弟頼義、頼清頼季、頼任、義政
源為満室、源信忠室
妻正室:平直方の娘、側室他:多気致幹の娘
義家義綱義光親清?、快誉
平正済室、徳姫(平則道=岩城則道(岩城氏の祖)の正室 or 清原成衡(平成衡)=岩城成衡?の正室と諸説ある)
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源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。多田源氏本流。河内源氏初代棟梁・源頼信嫡男で河内源氏2代目棟梁。
生涯
河内源氏の御曹司

頼信の嫡男として河内国石川郡壷井荘(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれ、弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人(官吏)としてそれぞれ推挙したという(『中外抄』)。

長元元年(1028年)6月、かつて父・頼信の家人であった平忠常が関東において反乱を起こし(平忠常の乱・長元の乱)、朝廷は桓武平氏の嫡流である平直方を追討使に任じたが、鎮圧できず、大規模な反乱となった。

長元3年(1030年)に、朝廷は直方に代えて、頼信・頼義親子に忠常討伐を命じた。忠常は頼信・頼義親子の出陣を知ると、速やかに反乱を止め、降伏した。

頼義はこの反乱平定に際して抜群の活躍をしたと言われる。乱後、小一条院敦明親王の判官代として勤仕し、狩猟を愛好したと伝わる小一条院の側近として重用されている。

その一方、官位昇進は遅く、50歳を目の前にして、長元9年(1036年)に相模守として初めて受領に任じられた。

なお、次弟・頼清は、5年前に安芸守として受領に任じられており、その後も、陸奥守肥後守など諸国の受領を歴任し、着実に能吏としての道を歩んでいった。
桓武平氏の婿となる

相模守在任中、平直方の女婿となった。平直方鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した[注釈 3]

平直方は、自らは忠常の乱の鎮圧に失敗して追討使を更迭されたが、乱を収めた頼義の武勇に感じ入り、「私は不肖の将軍であったが、それでも我が家はかの平将門を討ち滅ぼした平貞盛の嫡流である。それ故に何事も武芸第一と考えてきたが、国守殿ほどの弓の名人をこれまで見たことがない。ぜひとも我が娘の婿となって頂きたい」と述べ、頼義へ鎌倉を譲り渡した。

頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家賀茂次郎義綱新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。
陸奥守就任

永承6年(1051年)、前九年の役が勃発し、陸奥守藤原登任が、奥六郡を支配する安倍氏に玉造郡鬼切部で敗れた。藤原登任は責により、陸奥守を更迭された。

登任の後任の陸奥守として頼義に白羽の矢が立ち、朝廷は頼義を陸奥守、さらに鎮守府将軍を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように安倍軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。

頼義が陸奥守として陸奥の政庁であった多賀城に着任すると、安倍氏の首領であった安倍頼良は恭順の意を示し、自らの諱である「頼良(よりよし)」が将軍たる「頼義(よりよし)」と同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と名を改めるなど、平身低頭で頼義に従う姿勢を見せた。また中央でも国母である上東門院(藤原彰子)の病気平癒祈願による恩赦もあって、安倍氏の反乱自体が許された為、休戦状態(実質的に終戦)となった。
阿久利川事件

以後、頼義の陸奥守在任中は何事もなく平穏に過ぎ、その任期満了である天喜4年(1056年)の年を迎える事となった。

頼時から惜別の饗応を受けた頼義が鎮守府から国府へ帰還する途中、阿久利川にて野営を敷いて一夜を明かす事となったが、その際に何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった(阿久利川事件)。陸奥権守の藤原説貞の子・藤原光貞から頼時の嫡男・貞任の仕業であるとの言葉を受けて、頼義は頼時に貞任を引き渡すように求めた。頼時がこれを拒否して挙兵した。

頼義は軍勢を衣川の関へと差し向け、さらに朝廷からも頼時追討の宣旨が下され、再び安倍氏との前九年の役が再開される事となった。
永衡誅殺と経清出奔

戦役の再開後に微妙な立場に置かれる事となったのが、頼義の幕下でありながら頼時の娘婿でもあった藤原経清平永衡であった。特に永衡は前任の陸奥守・藤原登任が安倍氏懲罰を行った際に安倍側に走った過去があったため周辺から疑いの目で見られていた。官軍が衣川まで辿り着いた時、ある者が頼義に「永衡は前国守(登任)様から厚く眼を掛けて頂いていたにもかかわらず、安倍軍に走った不義不忠の輩です。今は将軍(頼義)に従う素振りを見せてはいますが、腹の中では何を諮り巡らせているか知れたものではありません。しかもあの者の鎧は我が官軍の者とは違った色をしております。漢の黄巾賊や赤眉賊の例を見ても、装備の色や形で敵味方を判断していたといいます。これを見ても永衡が二心を抱いているのは明らかで、災いが起こる前に早くあの者を取り除くべきです」と進言し、頼義も「もっともな事である」として、この進言を入れて永衡を誅殺した。これによって疑心暗鬼となったのが相婿の藤原経清であった。経清は親しき知人に「義理の兄弟であった十郎(永衡)が将軍に誅殺されてしまった。昔、漢の韓信彭越高帝から誅殺された時、二人の同僚の黥布は背筋が凍ったというが、今の私はまさにその心境だ。どうしたらいいだろうか」と尋ねると、知人は「恐らく将軍は貴殿を信用しないでしょう。そして必ず御身に災いが起こるに違いありません。貴方は災禍が降りかかる前に舅殿(頼時)の元へ走るのが賢明でしょう」と答えたため、経清は「その通りだ」として私兵を率いて安倍軍へ走ってしまった。平永衡が真に二心を抱いていたかは不明であるが、これにより頼義は立て続けに有力な幕僚を失った。


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