凡例源 頼朝
絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)[注釈 1]
時代平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕久安3年4月8日(1147年5月9日)
死没建久10年1月13日(1199年2月9日)
享年53(満51歳没)
改名鬼武者・鬼武丸(幼名)、頼朝
別名通称:三郎、佐殿、武衛、鎌倉殿、
源二位、右大将軍(右大将)、右幕下
戒名武皇嘯厚大禅門
墓所法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門)
白旗神社(鶴岡八幡宮境内)
官位従五位下、右兵衛権佐、正四位下、従二位、正二位、権大納言、右近衛大将、征夷大将軍
幕府鎌倉幕府 初代征夷大将軍
(在任:1192年 - 1199年)
氏族清和源氏頼信流河内源氏
父母父:源義朝、母:藤原季範の娘(由良御前)
兄弟義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼
全成、義円、義経、坊門姫、他女子
妻正室:北条政子
妾:亀の前、大進局
子大姫、頼家、貞暁、三幡、実朝
花押
テンプレートを表示
源 頼朝(みなもと の よりとも、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:源 ョ朝󠄁)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。 清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。 久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国愛知郡熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)[注釈 2][注釈 3][注釈 4][注釈 5][注釈 6]の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現在の誓願寺)にて生まれとされる[注釈 7]が、京都出生説もある。幼名は鬼武者、または鬼武丸[2]。 父祖は清和天皇の孫で臣籍降下した源経基、多田源氏の祖の源満仲、河内源氏の祖の源頼信、前九年の役の源頼義、後三年の役の源義家、源義親[注釈 8]、祖父の源為義[注釈 8][注釈 7]。母は季範の娘の由良御前。乳母は比企尼、寒河尼、山内尼。 父の義朝は保元の乱(1156年)において、平清盛らと共に後白河天皇側にたって戦勝し、崇徳上皇側の父の為義の助命を自身の戦功に替えて願うが許されず、父と弟たちを斬首し、左馬頭に任ぜられる。 保元3年(1158年)、頼朝は後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補される。上西門院殿上始において徳大寺実定、平清盛などの殿上人が集う中で献盃役を務める[注釈 9]。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任される。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が義朝の後継者、嫡男として待遇されていたとみられている。 平治元年(1159年)12月9日、義朝は藤原信頼と共に後白河上皇と二条天皇を内裏に捕える。14日、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられる[注釈 10]。26日、上皇と天皇は内裏から逃れる。27日、官軍となった清盛らが内裏へと攻め寄せ、賊軍となった義朝らは敗れて京を逃れ、東国を目指す。近畿から東海地方の地図 永暦元年(1160年)2月9日、頼朝は近江国で捕えられ京の六波羅へ送られ[6]、死刑を当然視されるが、清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられる[注釈 11]。
概略
生涯
改元の有った年は改元後の元号を記す
内容の典拠については年表を参照。
出生出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑
平治の乱詳細は「平治の乱」を参照