源頼家
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この項目では、鎌倉幕府の第2代将軍について説明しています。源頼光の次男については「源頼家 (摂津源氏)」をご覧ください。

 凡例源 頼家
源頼家像/建仁寺所蔵(江戸時代
時代平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕寿永元年8月12日1182年9月11日
死没元久元年7月18日1204年8月14日
享年23(満21歳没)
改名万寿(幼名)、頼家
別名鎌倉殿、左金吾
戒名法華院殿金吾大禅閤
墓所福地山修禅寺境内の指月ヶ丘
官位左衛門督征夷大将軍正二位
幕府鎌倉幕府第2代鎌倉殿
1199年 - 1203年
鎌倉幕府第2代征夷大将軍
(在任:1202年 - 1203年)
氏族清和源氏頼信河内源氏
父母父:源頼朝、母:北条政子
兄弟千鶴丸?、大姫、頼家、貞暁三幡実朝
妻正室不詳[注釈 1]
若狭局一品房昌寛娘、辻殿源義仲娘など
一幡公暁栄実禅暁竹御所
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鶴岡八幡宮参道の段葛

源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝嫡男で、母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。

父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。

合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。
生涯
鎌倉殿の嫡男

寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる[1]幼名は万寿。母は頼朝の流人時代に妻となった北条政子。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女河越尼河越重頼室)が呼ばれた。その他の乳母として梶原景時の妻の他、比企尼の三女平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。

頼家の側近は、比企三郎比企時員小笠原長経中野能成北条時房和田朝盛源性義印紀行景平知康などであり、政治的後見人は梶原景時比企能員であった。いずれも頼朝によって指名された人々である[2]

建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は「武将の嫡子なら当たり前のことである」と使者を追い返した。これについては、頼家が比企氏と関係が深かったため政子がそれを嫌ったとする説や、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが政子にはそれが理解できなかったとする説がある[3]。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある[4]。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪に処されている。

建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は武芸の達人として成長した。建久9年(1198年)には長子の一幡が誕生している。

なお、『吾妻鏡』には頼家の元服記事がない。これについては、『吾妻鏡』の欠落した部分である建久7年(1196年)から建久10年(1199年)1月までのうち頼家が叙任された建久8年(1197年)以前のどこかで元服したとする説[5]や、建久6年以前に元服したが『吾妻鏡』編纂者が何らかの理由でそれを記載しなかったとする説[4]などがある。
第二代鎌倉殿

建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 - 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。

頼家が家督を相続して3か月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を聴断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経比企三郎比企時員中野能成以下若い近習5人[注釈 2]を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。このあたりの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の慣習を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている(十三人の合議制の実態や頼家が本当に暗君であったかについては、#十三人の合議制の実態と頼家の実績を参照)。

合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人たちには、御家人66名による景時糾弾の連判状を頼家に提出した。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救うことができず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した[6]九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせたことは頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。

建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた城氏一族の女武者・坂額御前を引見している。建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。
将軍追放

景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、阿波局の姉である政子が引き渡しを拒否する。建仁3年8月10日(1203年9月16日)、病平癒を祈念し三嶋大社に奉納した頼家筆の般若心経

全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が跡を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請されたことが、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されている。使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた(比企能員の変)。

一人残った頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握ることになる。

『吾妻鏡』によると、「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28か国の総地頭となり、12歳の弟・千幡には関西38か国の総地頭を譲ると発表された[注釈 3]。しかし千幡に譲られることに不満を抱いた能員が、千幡と北条氏討伐を企てた」(8月27日条)。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(9月2日条)としている。

京都側の記録である『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺されて埋められたという。
最期

頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵[注釈 4]によって殺害された。享年23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみである(7月19日条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという[注釈 5]。南北朝期の史書である『保暦間記』では、入浴中に殺害されたとしている[注釈 6]
評価

北条氏の編纂である『吾妻鏡』における頼家像は、遊興にふけり家臣の愛妾を奪おうとする暗君として描かれている。ただし比企氏滅亡と頼家追放に関する『吾妻鏡』の記述は、京都側の史料とは明らかな相違があり、頼家をことさら貶める記述は北条氏による政治的作為と考えられている。『愚管抄』では「マタ昔今フツニナキ程ノ手キキニテアリケリ、ノクモリナクキコエキ(古今に並びなき武芸の腕前の持ち主だとは、隠れもない評判であった)」、『六代勝事記』では「百発百中の芸に長じて、武器武家の先にこえたり」と記されている。

また頼家近習であった信濃国の御家人・中野能成は、『吾妻鏡』では頼家に連座して所領を没収され遠流とされたことになっているが、『市河文書』に残されている書状では、比企氏滅亡直後の建仁3年(1203年)9月4日の日付で時政から「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という所領安堵を受けている。この能成と深い関係のあった時政の子・北条時房も頼家の蹴鞠の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』も参照のこと)。

頼朝死去の前後、建久七年の政変三左衛門事件により朝廷の反幕府派が攻勢を強めていた。十三人の合議制がしかれたのは、頼家が頼朝の跡を継いでわずか3ヶ月後であり、頼家の政治能力の欠如によるものとは考えにくい。頼家排斥は北条氏の陰謀のみではなく、幕府成立の起動力となった東国武士達の将軍独裁への鬱積した不満が背景にあったと思われる。また、十三人の合議制の導入と同じ月に行われた問注所の移転に関する『吾妻鏡』の記事にも矛盾が指摘されており[注釈 7]、頼家が行ったとされる独裁的な親裁は実は頼朝時代からのもので、『吾妻鏡』において頼朝と御家人の間で対立が生じていたのを隠す曲筆が行われた結果、頼家の行為だけが記録されたとする指摘も出されている[11]

結局、頼家は為政者としてはほとんど特色を示せないまま没し、以降御家人たちによる泥沼の権力闘争が続くことになった。そして数代を経て有力御家人達が合従連衡を繰り返して滅びていく中、権力闘争を勝ち残っていった北条氏の権力が次第に特出していくことになる(執権政治および得宗専制)。
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