源義経
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「源義経」のその他の用法については「源義経 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「牛若丸」と「遮那王」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「牛若丸 (曖昧さ回避)」、「遮那王 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

 凡例源 義経
中尊寺所蔵の義経像(部分。室町時代江戸時代作)[注釈 1]
時代平安時代末期- 鎌倉時代初期
生誕平治元年(1159年[注釈 2]
死没文治5年4月30日1189年6月15日
享年31(満30歳没)
改名牛若→遮那王(幼名)→義經・義行・義顕
別名九郎、判官、廷尉、豫州(仮名)
戒名捐館通山源公大居士[1]
墓所宮城県栗原市判官森(伝胴塚)
神奈川県藤沢市白旗神社(伝首塚)
官位従五位下左衛門少尉検非違使少尉伊予
氏族清和源氏為義流(河内源氏
父母父:源義朝 母:常盤御前
養父:一条長成
兄弟義平朝長頼朝義門希義範頼阿野全成義円・義経、坊門姫・女子・廊御方?・一条能成・女子(一条長成の娘)
妻正室:河越重頼の娘(郷御前
妾:静御前平時忠の娘(蕨姫
子男児[2]・女児[3]・男児(千歳丸[4][3]・ 女子(源有綱室?)[5]
花押
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徳島県小松島市旗山にある日本最大の騎馬像。

源 義経(みなもと の よしつね、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:源 義經)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本武将鎌倉幕府初代将軍源頼朝異母弟仮名は九郎、実名は義經(義経)である。

河内源氏源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と言った。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。

兄・頼朝平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷屋島壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。

その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。

その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき[注釈 3])という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ[6]
生涯

文中の( )の年は
西暦ユリウス暦、月日は全て和暦宣明暦の長暦による。

義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語[注釈 4]や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。
誕生鞍馬寺

清和源氏の流れを汲む河内源氏源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前九条院雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若乙若と共に逃亡し大和国奈良県)へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる[注釈 5]

後に常盤は公家一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時[7]鞍馬寺京都市左京区)の覚日和尚へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った[注釈 6]

やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日桃の節句(上巳)に鏡の宿に泊まって自らの手で元服を行い[8]奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍藤原秀衡を頼って平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝手をたどった可能性が高い[注釈 7]

平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
治承・寿永の乱詳細は「治承・寿永の乱」を参照黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が対面し平家打倒を誓ったとされる対面石


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