源義家
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 凡例源 義家
源義家(『前賢故実』より。菊池容斎画)
時代平安時代中期-後期
生誕長暦3年(1039年
死没嘉承元年7月4日1106年8月4日
享年68
改名源太、不動丸、義家
別名八幡太郎
墓所大阪府南河内郡太子町
官位正四位下出羽下野守
陸奥守鎮守府将軍、贈正三位
主君藤原頼通白河法皇
氏族河内源氏石川源氏
父母父:源頼義、母:平直方の娘
兄弟義家、義綱義光快誉
平正済室、清原成衡
藤原有綱の娘、源隆長の娘など
義宗義親義忠義国義時義隆輔仁親王室、源重遠
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源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代中期から後期の武将源頼義長男。八幡太郎の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。

比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は逼塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。

その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な臆測がされてきた。生前の極位は正四位下
生涯

源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれる[1]。母は、平直方の娘[2]

幼名は不動丸、または源太丸。7歳の春に、山城国石清水八幡宮元服したことから八幡太郎と称す。
出生と没年

生没とも諸説あるが、68歳で死去とする史料が多く、没年は史料としての信頼性が最も高い『中右記』嘉承元年(1106年)7月15日条から逆算し、長暦3年(1039年)の生まれとする説が有力である。
前九年の役から下野守まで

鎮守府将軍兼陸奥守に任ぜられた父・頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、天喜5年(1057年)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。その後出羽国の清原氏の応援を得て頼義は安倍氏を破った。

しかし、『奥州後三年記』(『続群書類従』収録)には清原武衡乳母の千任に「なんぢが父頼義、貞任宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎮守府将軍・清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり」と言われて激怒したことが載っているが、「名簿」を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判る。康平6年(1063年)2月25日に義家は従五位出羽守に叙任された。

しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌康平7年(1064年)に朝廷に越中守への転任を希望したことが記されている。ただしそれが承認されたかどうかは不明である。この年、義家は在京しており美濃国において美濃源氏の祖・源国房と合戦している。

延久2年(1070年)に義家は下野守となっており、陸奥で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶桑略記』8月1日条に見える。当時の陸奥守は大和源氏源頼俊で、即位間もない後三条天皇が頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服(延久蝦夷合戦)自体は成功したが、この藤原基通の件の為か頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。
白河帝の爪牙

承暦3年(1079年)8月に美濃で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉・源重宗清和源氏満政流4代)を官命により追討。

永保元年(1081年)9月14日に検非違使と共に園城寺悪僧を追補(『扶桑略記』)。同年10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と2人でそれぞれの郎党を率いて護衛したが、この時本官(官職)が無かったため関白藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。

12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。後の「北面武士」の下地にもなった出来事である。


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