源義仲
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この項目では、みなもとのよしなかについて説明しています。その他の源義仲については「源義仲 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

 凡例 源 義仲
徳音寺所蔵)
時代平安時代末期
生誕1154年
死没治承8年1月20日1184年3月4日
享年31
改名駒王丸→源義仲
別名木曽次郎、朝日将軍、旭将軍
戒名徳音院義山宣公
墓所滋賀県大津市馬場の朝日山義仲寺
京都市東山区法観寺(首塚)
長野県木曽郡 徳音寺
官位従四位下左馬頭越後守伊予守
征東大将軍[注釈 1]
氏族清和源氏為義流河内源氏
父母父:源義賢、母:遊女[1]小枝御前?)
養父:中原兼遠
兄弟仲家、義仲、宮菊姫
妻正室:[注釈 2]
中原兼遠の娘?[注釈 3]金刺盛澄の娘?[注釈 4]藤原伊子?
妾:巴御前?
義高義重?、義基?、義宗?、源頼家妾(竹御所母)?
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源 義仲(みなもとの よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏武将河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる[3][4][5]。『平家物語』においては朝日将軍[6][7](あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。

以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
生涯「大日本六十余将」より『信濃 旭将軍源義仲』、大判錦絵
生い立ち

河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる[注釈 5]

平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄で義賢嫡男の仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。

『源平盛衰記』によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある[注釈 6]諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。こうしたこととも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。
挙兵義仲館の銅像。巴御前と並ぶ

治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政とともに宇治で討死している。

同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためといわれている[注釈 7]

翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆(平賀氏等)・甲斐衆(上州衆との説もある)など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。

寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一応の決着がつくが、後にまた対立する。

4月、平氏は京の兵糧の供給地である北陸道の回復を図り、平維盛を大将として北陸に出陣。越前国火打城の戦いに勝利した平氏軍は、加賀国に入っても連戦連勝で破竹の進撃を続ける。義仲は今井兼平に6千の先遣隊を率いさせ、平氏軍の平盛俊による先遣隊が陣を張る越中国般若野を奇襲する(般若野の戦い)。この奇襲が功を奏して平家軍は越中・加賀国の国境にある礪波山倶利伽羅峠の西に戻ることになる。

5月11日、義仲は倶利伽羅峠の戦いで10万ともいわれる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。


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