凡例源経頼
時代平安時代中期
生誕寛和元年(985年)または貞元元年(976年)[1]
死没長暦3年8月24日(1039年9月15日)
官位正三位、参議
主君一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇
氏族宇多源氏
父母父:源扶義、母:源是輔
源 経頼(みなもと の つねより)は、平安時代中期の公卿。宇多源氏、参議・源扶義の次男。官位は正三位・参議。 長徳4年(998年)に従五位下に叙爵し、寛弘2年(1005年)には玄蕃頭に任ぜられる。寛弘7年(1010年)従五位上・少納言。長和3年(1014年)左少弁に任ぜられると、長和4年(1015年)正五位上、寛仁3年(1019年)右中弁、寛仁4年(1020年)従四位上・権左中弁、治安2年(1022年)正四位下、治安3年(1023年)左中弁と弁官を務めながら昇進する。長元2年(1029年)蔵人頭兼右大弁になると、翌長元3年(1030年)参議に任ぜられ公卿に列した。 議政官として、中宮権大夫・兵部卿・左大弁・勘解由長官などを務め、長暦2年(1038年)正三位に至る。長暦3年(1039年)8月24日薨去。享年55または64。最終官位は参議正三位行左大弁 宇多天皇の4世孫として、祖先より相伝の源家流故実礼法を有していたことに加え、藤原道長・藤原頼通・藤原実資・藤原公任・藤原行成らと交流して藤原氏諸流の儀礼を熱心に学び、『西宮記』勘物(青縹書)を作成すると共に日記『左経記』を著した。『左経記』や経頼の故実学は、のちに源俊明・源能俊・源俊雅ら醍醐源氏高明流の官人や、藤原頼長・藤原忠親らの平安末期の公卿間に影響を与えた。ほかにも『類聚符宣抄』も著している。 従兄弟にあたる藤原頼通との交流があり、経頼はしばしば書籍の奉納を行っているほか[2]、二人の間に関する以下の逸話がある。 『公卿補任』による。 『尊卑分脈』による。
経歴
人物
逸話
宇治殿(頼通)が参内した際、陽明門の内(左近衛府の前あたり)の置道(貴人用の通路)のほとりに、誰かが落としたと思われる大袋が落ちていた。随身に中身を確認させたところ、文様のある生地を使用した束帯装束一揃えが入っていたが、襟がことのほか広く、その品一つ一つが悉く粗悪であり、経頼が落とした物と思われた。頼通は邸宅に戻ったのち、長絹20疋を持った使いを経頼の許へ遣わせたという。(『古事談』[3])
宇治殿が殿上の小板敷(清涼殿殿上の間の板敷)にて経頼を譴責した。源右府(源師房)のことを謗ったためという。経頼が汗を流しながら退出したところを、紫宸殿の北庇で源経長と出くわした。経頼は火の気のない灰のように全く生気のない様子で「殿下(頼通)の譴責を受けた。運がもう既に尽きてしまった」と言った。その後、経頼は幾ばくも経ないうちに病気になり遂に没したという。(『古事談』[4])
官歴
長徳4年(998年) 正月7日:従五位下(中宮御給)
寛弘2年(1005年) 2月:玄蕃頭
寛弘6年(1009年) 10月1日:次侍従
寛弘7年(1010年) 正月7日:従五位上(玄蕃頭労)。2月16日:少納言
寛弘8年(1011年) 2月2日:和泉守(別功)
長和3年(1014年) 正月24日:兼左少弁
長和4年(1015年) 10月21日:正五位上(造宮行事賞)
長和5年(1016年) 正月29日:五位蔵人、左少弁兼帯
寛仁2年(1018年) 正月27日:兼近江守、止蔵人、左少弁兼帯
寛仁3年(1019年) 12月21日:右中弁、近江守兼帯
寛仁4年(1020年) 正月5日:従四位下(弁)。2月6日:従四位上(為和泉守時造宣耀殿功)。3月:兼内蔵頭。11月29日:権左中弁、頭・守兼帯
治安2年(1022年) 正月5日:正四位下(石清水行幸行事賞)。4月3日:兼中宮亮、弁兼帯
治安3年(1023年) 12月15日:左中弁(平野大原野行幸行事追賞可給之由)、頭・亮兼帯
治安4年(1024年) 正月22日:兼丹波守。4月22日:兼造大安寺長官
長元2年(1029年) 正月24日:右大弁。正月27日:蔵人頭、右大弁兼帯
長元4年(1031年) 2月17日:兼近江権守
長元5年(1032年) 正月6日:従三位(平野大原野行幸行事追賞)
長元8年(1035年) 10月14日:兼中宮権大夫
長元9年(1036年) 9月6日:止中宮権大夫(中宮崩御)
長暦元年(1037年) 11月5日:兼兵部卿。日付不詳:兼伊予権守
長暦2年(1038年) 正月7日:正三位。6月7日:兼左大弁
時期不詳:勘解由長官
系譜
父:源扶義
母:源是輔の娘
先妻:不詳
男子:源清房 - 従四位下少納言
男子:尊覚 - 権少僧都
男子:済延 - 権大僧都
男子:隆昭 - 延暦寺
女子:源隆国室
後妻:藤原行成の娘
男子:源信房 - 正四位下若狭守
女子:藤原資仲室
脚注^ 『公卿補任』
^ 『左経記』
^ 『古事談』第二臣節9,頼通、経頼に長絹を贈る事
^ 『古事談』第二臣節10,経頼、頼通の叱責により死する事
参考文献
『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
浅見和彦、伊東玉美『新注 古事談』笠間書院、2010年
河北騰「左経記と栄花物語」『立正大学文学部論叢』098号、1993年
外部リンク
『摂関期古記録データベース』国際日本文化研究センター(『左経記』の読み下し文を公開)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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