凡例経基王 源 経基
源経基/菊池容斎画『前賢故実』より
時代平安時代中期
生誕不詳(#生没年について参照)
死没応和元年11月10日(961年12月20日)
改名経基王(皇族時代) → 源 経基(臣籍降下後)
別名六孫王
神号六孫王大権現
墓所京都府京都市南区 六孫王神社
官位武蔵介、正四位上[1]、鎮守府将軍、贈正一位
氏族源氏(清和源氏)
父母貞純親王、源柄子
源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。
『保元物語』によれば、父は清和天皇の第6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。 太政大臣・藤原忠平の治世下の承平8年(938年)武蔵介として現地に赴任する。同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注[注釈 1] を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った[注釈 2]。
生涯
天慶2年(939年)11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、以前の誣告が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた[注釈 4]。その後、征東大将軍・藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京。
天慶4年(941年)に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来 桑原生行を捕らえるにとどまった。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。
晩年、臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、同時代の藤原忠平の日記『貞信公記』の天慶2年(939年)3月3日付に「源経基、武蔵の事を告げ言う。」と記されているのもあり、経基が果たして皇族であった時期があったかどうか疑問視もされている。ただしこの記述については、忠平の子・藤原実頼が抄録した際に源姓を書き入れたとする説もある[4]。
勅撰歌人であり、『拾遺和歌集』に2首が採録されている[5]。
嫡子の源満仲が建立したという六孫王神社(京都府京都市南区)に祀られている。元禄14年(1701年)には正一位を贈位されている。 『尊卑分脈』では応和元年(961年)に45歳で卒去したとある事から、逆算して生年は延喜17年(917年)生まれとなる。また、『勅撰作者部類
生没年について
先述の藤田佳希は同論文で、貞純親王の没年と子の源満仲の生年から、遅くとも延喜元年(901年)には生まれていたと計算した。
官歴
承平8年(938年) 2月:見武蔵介[6]
天慶3年(940年) 正月9日:従五位下[7][8][9]。3月9日:大宰少弐[10][11]
天慶9年(946年) 11月21日:見大宰少弐[12]
系図
54 仁明天皇
55 文徳天皇 58 光孝天皇 人康親王
56 清和天皇 惟喬親王 59 宇多天皇 藤原基経妻
57 陽成天皇 貞純親王 真寂法親王
(斉世親王) 敦実親王
源清蔭
〔陽成源氏〕 源経基
〔清和源氏〕 源雅信
〔宇多源氏〕