源範頼
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源頼範」とは別人です。

 凡例源 範頼
源範頼像(横浜市金沢区太寧寺蔵)
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕久安6年(1150年[1]
死没建久4年8月17日1193年9月14日
享年44
別名蒲冠者、蒲殿、参州、吉見御所
戒名名巌大居士
墓所伊豆市修禅寺温泉場西北側の山腹
埼玉県北本市東光寺
神奈川県横浜市金沢区の太寧寺
愛媛県伊予市の鎌倉神社
官位従五位下三河守
氏族清和源氏為義流(河内源氏
父母父:源義朝、母:池田宿(磐田市)の遊女
養父:藤原範季
兄弟義平朝長頼朝義門希義、範頼
全成義円義経坊門姫、女子
安達盛長
範圓、源昭[注釈 1]
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源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。

遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。

武蔵国横見郡吉見(現・埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。
生涯
蒲冠者

尊卑分脈』によれば、生母は遠江国池田宿の遊女とされている。池田宿は現在の静岡県磐田市平成の大合併前は磐田郡豊田町)池田に比定され、範頼の生地とされる伊勢神宮内宮領・蒲御厨の東隣にあたる。現在では池田宿と蒲御厨は天竜川によって隔てられているが、平安時代には天竜川は池田宿の東側に流れており、池田宿は蒲御厨と地続きになっている天竜川西岸に設けられた東海道の宿場で京都東国を結ぶ交通の要衝でもあった。このため、「遊女」とは称していても実際には単なる芸能民ではなく池田宿の有力者(長者)の娘で、父・義朝が池田宿との関係構築を目的として婚姻を結んだのではないかとみる説がある[2]

父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季東国受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。

治承4年(1180年)に挙兵した兄・頼朝のもとにいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動して、遠江国を占拠した甲斐源氏安田義定と協力関係にあったと考えられる。

寿永2年(1183年)2月、常陸国の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍。その進軍に下野国小山氏が迎撃し野木宮合戦となる。範頼は援軍として関東での活動が初めて史料(『吾妻鏡』)で確認される。小山氏の活躍により勝敗は決しており、残敵掃討戦参加のように考えられるが、甲斐源氏と頼朝との協力関係の中で、義定から派遣されたと見る説がある。一方で当時小山氏らが擁していたのは頼朝ではなく範頼で、鎌倉の頼朝はこの戦いとは無関係であったとする説もある。その説によると範頼の養父である範季は下野国の受領を務めており、小山氏も義広に対抗できる源氏の貴種として下野に下っていた範頼を擁した結果、義広と範頼の間で軍事衝突に至った。野木宮合戦は『吾妻鏡』にある通り治承5年(1181年)で、寿永元年(1182年)までに範頼・小山氏らは頼朝勢力と合流したとする[3]
大将軍代理

寿永3年(1184年)1月、頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、先に西上していた義経の軍勢と合流して宇治・瀬田の戦いに参戦。尾張国墨俣渡にて御家人らと先陣争いで乱闘になったのが頼朝の耳に届き、怒りを買っている[4]。1月20日、範頼は大手軍を率いて瀬田に向かい、義経は搦手軍を率いて宇治を強襲した。義経の独断による強襲といわれているが、範頼軍は広く展開し、ゆっくりとした進軍をしていることから、戦上手の今井兼平率いる500余騎を範頼軍に引きつけるための作戦だったと思われる。また範頼軍も強襲をすると、進軍の大義名分である義仲が西方面に逃亡してしまう危険性があり、なにより京都には3万の兵士をまかなえるだけの食糧がなかった。義経の京都強襲が成功すると義仲は今井兼平と合流し、北陸に逃亡をはかるが、事前に察知していた範頼軍は展開していた兵士で追跡し、甲斐源氏の一条忠頼がまず捕捉して、最終的に義仲を討伐する。『平家物語』では義経が先に後白河法皇の御所に駆け付け、名乗りを上げる場面で「範頼は未だ参らず」という台詞がある。『吾妻鏡』では範頼と義経は共に院の御所に参上しているが、これは『平家物語』の方が正しいと思われる。それは都の混乱を避けるべく、範頼軍は直接に入京していなかったと考えられるからである。

寿永3年(1184年)2月5日に始まった一ノ谷の戦いでは、範頼は大手軍を率いて進軍し(宇治川の戦いで率いた3万の兵士を基幹としたと思われる)、また義経は1万の搦手軍を率いて進軍した。両軍の兵力差からみて、すでに敵主力を範頼軍に引き付ける作戦は決定していたと思われる。福原を本営に強固な防御陣を築いて待ち受ける平家に対し、範頼軍は東側から正面攻撃を行い、生田の森において激戦が展開された。この間に西側に回り込んだ義経軍と合わせて戦いは7日午前に終結し、平氏を海上に追いやって大勝する。頼朝の名代である範頼は自身が前線で武功を上げるよりも義経以下の配下の諸将を指揮して武功を上げさせる役割を担っていた。墨俣渡で御家人と先陣争いをしたことを頼朝に叱責されたのも範頼の役割に反するものとみなされたからと考えられる[5]

3月、範頼は上洛の際の乱闘騒ぎの咎で謹慎させられ、何度も嘆きわびてようやく許されている。

6月、範頼は戦功により三河守に任じられ、この守は名義上のものではなく建久4年(1193年)8月の失脚に至るまで最高責任者として同国を支配した[6]。現在、三河の地には範頼の名で建設された寺が存在し、政治においても高い能力を持っていたと思われる。
九州征伐

8月、範頼は九州進軍の任を受ける。出陣の前日に範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る。この時代において馬は貴重品であり、また頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられたことから、遠征の重要性が理解できる。また九州進軍は平氏討伐ではなく、頼朝と対立・平氏を援助する西国家人を鎮圧し、平氏を瀬戸内方面に孤立させることである。参加した武将は北条義時足利義兼千葉常胤三浦義澄八田知家葛西清重小山朝光比企能員和田義盛工藤祐経天野遠景など頼朝軍の主力武士団を揃えた。


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