源為義
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 凡例源 為義
源為義像/白峯神宮
時代平安時代末期
生誕永長元年(1096年
死没保元元年7月30日1156年8月17日
享年61
別名六条判官、陸奥四郎
墓所京都府京都市下京区朱雀裏畑町 権現寺
官位従五位下左衛門大尉検非違使
主君白河天皇鳥羽天皇藤原忠実藤原頼長
氏族清和源氏河内源氏
父母父:源義親または源義家
兄弟義信、義俊、義泰、為義、義行、宗清(義家を父とした場合には、義宗義親義忠、為義、義国義時義隆輔仁親王室、源重遠室)
妻藤原忠清娘、源基実娘、
賀茂成宗娘、江口遊女、他
義朝義賢志田義広頼賢頼仲為宗為成為朝為仲行家維義?、頼定?、正親?、仙覚、乙若、亀若、鶴若、天王、美濃局、鳥居禅尼佐々木秀義室、藤原光隆室、他
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源 為義(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。一般的には祖父が源義家、父が源義親とされるが、義家を父とする説もある(後記)。叔父(義家を父とした場合は兄)の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝源義経源範頼源義仲らの祖父。

当初は白河法皇鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家藤原忠実頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。
生涯
生い立ち

永長元年(1096年)に誕生。室町時代に編纂された『尊卑分脈』の記載から源義親の四男とする見解が一般的であるが、佐々木紀一は『尊卑分脈』成立以前の中世系図[1]藤原忠実の日記『殿暦』の文言[2]などから、為義は義家の四男であったとする説を提唱している[3]。また、藤原頼長の日記『台記』康治元年8月3日条などの記述も為義を義家の実子と判断する根拠になるとされている[4]

尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。この記述に従えば、幼少の為義は叔父の義忠や祖父の義家と共に京にいたと思われる[注釈 1]

嘉承元年(1106年)に義家が死去すると義忠が家督を継ぐが、天仁2年(1109年)に暗殺された(源義忠暗殺事件)。義忠の叔父・源義綱一族が嫌疑を受けて追討の対象になると[注釈 2]為義は美濃源氏源光国と共に追討使に起用され、義綱を捕縛して京へ凱旋した。この功により、為義は14歳で左衛門少尉に任じられた[注釈 3]

初期の為義は院との関係が深く、摂関家と懇意だった様子はない。『愚管抄』には白河法皇が「光信、為義、保清の三人を検非違使に任じ、即位したばかりの鳥羽天皇を警護させた」とあり、永久の強訴保安4年(1123年)の延暦寺の強訴では平忠盛と並んで防御に動員されるなど、院を守護する武力として期待されていたことが分かる。為義の最初の妻も白河院近臣・藤原忠清の娘で、長男の義朝を産んでいる。保安5年(1124年)頃には検非違使に任じられた。しかし、同い年で任官もほぼ同時だった忠盛が受領を歴任したのに対して、為義は一介の検非違使のまま長く留め置かれ、官位は低迷することになる。
狼藉と処罰

為義が昇進できなかった最大の原因は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為だった。以下に記録に残る事例を列記する。

永久2年(
1114年

5月、源行遠の郎党を殺害した犯人を匿う[7]

5月、尊勝寺領信濃荘の年貢強奪事件で、源光国が犯人を捕らえて押収物を検非違使庁の源重時に引き渡すが、重時の郎党・公正がその多くを奪って逃走する。為義は公正を匿い、検非違使庁の再三の督促を無視[8]

8月、九条太政大臣(藤原信長)の後家が、下野国の家領を管理する為義郎党の追却を訴える[9]

8月、国衙領の雑物を押し取ったとして、上野国司が為義郎党の家綱を検非違使庁に告発。為義は自分の郎党ではないと主張して、叔父の源義国と争論に及ぶ[10]


大治4年(1129年

正月、殺人を犯した源光信の郎党が赦免された際に、奪い取って自らの郎党にしようと図り、光信と合戦寸前になる[11]

11月、興福寺衆徒による仏師長円暴行事件で、犯人追捕のため他の検非違使と共に南都(奈良)に派遣されるが、逆に首謀者の悪僧・信実を匿って鳥羽上皇から勘当される[12]


大治5年(1130年)5月、延暦寺の悪僧追捕の際、郎党が誤って前紀伊守・藤原季輔(鳥羽上皇の生母・藤原苡子の甥)に暴行を加えたことで、検非違使別当・三条実行により勘事に処される。源師時は「為義の作法、児戯の如し」と評す[13]

長承2年(1133年)9月、為義の郎党が丹波国に赴いて多くの人々を殺害[14]

為義本人については犯罪者の隠匿、他の同僚との軋轢、郎党については粗暴な振る舞いが目に付く。保延元年(1135年)4月、西海の海賊追討に際して忠盛と共に候補に挙がるが、鳥羽上皇は「為義を遣わさば、路次の国々自ずから滅亡か」として強く反対した[15]。為義郎党による追討に名を借りた略奪行為を懸念したと見られる。

保延2年(1136年)、為義は左衛門少尉を辞任する。これまでの経緯を見ると、実質的には解官に近かったと推測される。保延5年(1139年)、無官となった為義は高野山改革派で鳥羽上皇の尊崇を受けていた覚鑁に名簿を提出し、院の不快を蒙ったことを語り、伺候と任官のための祈祷を嘆願している[16][注釈 4]


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