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武将の「源為公」とは別人です。
凡例.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}源(みなもとの) 為朝(ためとも)
正一位為朝大明神肖像 東京都立図書館 歌川国芳
時代平安時代末期
生誕保延5年(1139年)
死没嘉応2年4月6日(1170年4月23日)頃
別名鎮西八郎
墓所岡山県井原市門田町ほか
官位無官(称・鎮西惣追捕使)
氏族清和源氏為義流(河内源氏)
父母父:源為義、母:江口の遊女
兄弟義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲、鳥居禅尼、行家、維義?、頼定?、正親?、仙覚、乙若、亀若、鶴若、天王、美濃局、佐々木秀義室、中村光隆室ら
妻平忠国の女、阿多忠景の女?
子義実、実信、為頼(頼基)、朝稚(義包)、為家
足助重長室、舜天(尊敦)?、実久三次郎?
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源 為朝(みなもと の ためとも、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:源 爲朝󠄁)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。 『愚管抄』には為朝が兄の頼賢とともに奮戦したとあり、『吾妻鏡』にも戦場で射られた大庭景義が為朝のことを「無双の弓矢の達者」だと言うくだりがあり、当時から世に聞こえた剛の武者であったことは確かである。以下本項では、主に『保元物語』の記すところにしたがって為朝の生涯をたどる。 為朝は身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがり容貌魁偉、また強弓の使い手で、前に出して弓を支える左腕が、後で弦を引く右腕よりも4寸(12cm)も長いという、弓を引くために生まれたような体つきをしていた。勇猛で兄たちにも傍若無人であった。 13歳の時、乱暴が過ぎて父の為義に勘当され、九州に追放される。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国 翌保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると、治天の君の座を巡って対立していた崇徳上皇と後白河天皇の衝突は避けられない情勢になっていた。双方が名だたる武士をそれぞれの陣営に招くなか、為朝の父・為義は上皇方の大将として招かれる。老齢を理由に再三これを辞したものの、遂には承諾させられ、為朝ら6人の子を引連れて崇徳上皇の御所白河北殿に参上した。一方、為義の嫡男で坂東を地盤としていた義朝は多くの東国武士とともに天皇方へ参じた。 為朝は三尺五寸の太刀を差し、五人張りの強弓を持って西河原面の門を守った。7月11日、軍議が開かれ、為朝は「九州で多くの合戦をしましたが夜討に勝るものはありません。ただちに高松殿(天皇方の本営)へ攻め寄せ、火を放てば容易に勝てましょう。兄の義朝が出てくれば私が射落としますし、清盛なぞは敵にもなりません。逃げ出してくる主上の駕車の人夫を射散らして、主上をお連れすればよろしい」と夜討を献策するが、左大臣・藤原頼長は「乱暴なことを言うな。夜討などは武士同士の私戦ですることだ。主上と上皇の国を巡る戦いである。興福寺の僧兵の到着を待って決戦するべし」と退けてしまった。為朝は兄の義朝は必ず夜討をしかけてくるだろうと予見して口惜しがった。 その夜、為朝の予見通りに天皇方が白河北殿に夜討をかけてきた。為朝を宥めるために急ぎ除目を行い蔵人に任じるが、為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」と跳ね付けた。なお、『愚管抄』では夜襲を献策した人物を為朝ではなく父の為義としている。 平清盛の軍勢が為朝の守る西門に攻めてきた。清盛の郎党伊藤景綱とその子忠景(忠清)・忠直が名乗りをあげると為朝は「清盛ですら物足りないのに、お前らなぞ相手にならん、退け」と言う。景綱が「下郎の矢を受けてみよ」と矢を放つ。為朝はものともせず「物足りない敵だが、今生の面目にせよ」と先が七寸五分(22センチ)もある、鑿に矢軸をつけたような太矢を射かけ、矢は忠直の体を貫き、後ろの忠清の鎧の袖に突き刺さった。忠清は矢を清盛のもとに持ち帰って報告し、清盛たちは驚愕して怖気づいてしまう。清盛は部署を変えて北門へ向かうが、嫡男の平重盛が口惜しいことだと挑もうとして清盛があわてて止めさせた。 剛の者の伊賀国の住人山田伊行
生涯
鎮西総追捕使
保元の乱
清盛に代わって兄の義朝の手勢が攻め寄せ、郎党の鎌田政清が進み出で名乗りを上げた。為朝は「主人の前から立ち去れ」と言い返すが、政清は「主人ではあったが、今は違勅の凶徒」と言うや矢を放ち、為朝の兜に当たる。これに為朝は激怒して「お前なぞ矢の無駄だ、手打ちにしてくれる」と鎮西の強者28騎を率いて斬り込みをかけ、政清は敵わずと逃げ出し、「これほどの敵には遭ったことがございません」と義朝に報告した。義朝は「馬上の技は坂東武者の方が上である」と坂東武者200騎を率いて攻めかかり乱戦となった。