源満仲
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 凡例源 満仲
源満仲/菊池容斎画『前賢故実』より
時代平安時代中期
生誕延喜12年4月10日912年4月29日)?[1]
死没長徳3年8月27日997年10月6日
享年87と伝えられている
改名明王丸→満仲→満慶(法名)
別名多田新発意
神号多田大権現車
墓所兵庫県川西市多田神社
和歌山県高野町高野山奥の院
神奈川県箱根町元箱根石仏群ほか
官位正四位下左馬助鎮守府将軍上総介
常陸介武蔵守摂津守越後守越前守
下野守美濃守信濃守伊予守陸奥守
正一位
主君藤原兼家
氏族清和源氏経基流
父母父:源経基(経基王)、
母:橘繁古の娘
兄弟満仲、満政満季、満実、満快、満生、満重(満成)、満頼[注釈 2]、源元亮室、藤原惟岳室
源俊の娘、藤原致忠の娘、藤原元方の娘など
頼光頼親頼信頼平頼明頼貞頼範、頼尋、源賢(賢快)、藤原頼親室、源敦室、藤原道綱室ほか
養子:孝道(源元亮子)
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源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将清和源氏六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。は満中とも記される。神号は多田大権現。
生涯

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王[注釈 3]清和天皇の皇孫源蕃基[注釈 4]がそれぞれ主犯と共犯であったという[3]

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇鷹飼に任ぜられる[4]。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢国に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出た[注釈 5]が、満仲のみ病による辞退を許された[5]

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。

藤原摂関家に仕えて、摂津国越後国越前国伊予国陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという[6]。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない[7]

二度国司を務めた摂津に土着。摂津住吉郡[注釈 6]住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地[注釈 7]に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した[8]。武士団の中心として坂上党の棟梁坂上頼次を摂津介に任命し、山本荘司に要請して西政所、南政所、東政所を統括して警衛にあたらせた[9]

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」[10]とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家一条天皇摂政に就任した。

永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。

長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。
系譜

父:
源経基

母:橘繁古の娘もしくは藤原敏有の娘

妻:源俊の娘

長男:源頼光(948-1021) - 摂津源氏

男子:源頼平 - 子孫は柏原氏・檜坂氏・匂当氏など

男子:源賢(977-1020)


妻:藤原致忠の娘

次男:源頼親 - 大和源氏

三男:源頼信(968-1048) - 河内源氏


妻:藤原元方の娘

生母不詳

男子:源頼範 - 源頼光の養子

男子:源頼明 - 出羽守・山城介

男子:源頼貞 - 帯刀先生

男子:頼尋

女子:藤原頼親

女子:源敦室

女子:藤原道綱

古事談』には藤原惟成が婿となっていたとある。


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