源氏物語
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「源氏物語」のその他の用法については「源氏物語 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
江戸時代絵師 土佐光起(1617-1691)筆『源氏物語画帖』より[1]、『源氏物語』第5帖「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった紫の上と、柴垣から隙見する光源氏土佐光起筆『源氏物語画帖』より、『源氏物語』第20帖「朝顔」。「雪まろばし」(雪転ばし)の状景[注 1]。邸内にいるのは光源氏紫の上

『源氏物語』(げんじものがたり、英語: The Tale of Genji)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語小説。全54帖、文献初出は1008年寛弘五年)、平安末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された。作者の紫式部は平安中期における和歌の名手の1人で、娘の大弐三位とともに「百人一首」や「女房三十六歌仙」の歌人として現代に至るまで永く親しまれており、源氏物語は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品である[注 2]。日本の歴史上、貴族階級の全盛期だった平安中期に生き、宮仕えで宮中の内情にも日常的に接した紫式部が、和歌795首を詠み込んだ物語を通して当時の貴族社会を描いた[3]
概要

下級貴族出身の紫式部は、後に一条天皇から日本書紀など漢文で書かれた日本の歴史書への見識をほめられるなど[注 3]、幼少より日本と中国の歴史書、和歌漢籍漢詩の理解に優れ[注 4]、平安期では晩婚となる20代半ばすぎに藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始め、これが『源氏物語』の始まりともいわれる[12]。当時、は貴重で、紙の提供者がいればその都度書き[注 5]、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが[注 6]、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ[注 7]

当時、貴族女性には漢文は不要とされ漢詩漢籍がわからない者が多かったが[10]、天皇の妃である中宮には白氏文集など漢詩の教養が要求された[3]清少納言一条天皇の中宮定子に漢詩を教えたように[注 8]、紫式部も一条天皇のもう一人の妻である中宮彰子の家庭教師を務めた。宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け[注 9]、54帖からなる『源氏物語』が完成した[3]。この原本は現存せず鎌倉初期の「藤原定家自筆本」が現存する最古の写本となる。

物語の概要は、天皇の実子だが天皇になれない宿命[注 10]を幼くして父から与えられた主人公光源氏の栄光と没落、その政治的欲望と権力闘争の数々、光源氏の栄華復活とその死後、子と孫そして紫式部が自らを投影したとも思われる女性[17]、この三者の世界と女性の末路など、全54帖。第1帖?第41帖は「光源氏」を軸に描かれ、第42帖?第54帖は「」を軸に描かれる。なお、執筆された11世紀初頭は国風文化の最盛期で、時代を反映し、紫式部は自身の和歌や他者の物語作品と同じく、源氏物語の記述には漢字(漢文 万葉仮名・男手)ではなく平仮名(変体仮名・女手)を使用している[注 11]。(物語詳細は「源氏物語各帖のあらすじ」参照)

現代の一般的な小説や物語には見られない特色として、歌人としての紫式部の力量が全帖にわたり発揮される源氏物語には和歌795首が詠み込まれ、それらは飾りではなく、とりわけ男女間の事柄や話の核心部分などは、文章ではなく、和歌によって婉曲に描かれる場面も多く、品位と描写を両立させる手法がとられており、この和歌が理解できないと話の展開自体がわからない場面も少なくない[注 12]。文章でそれらが描かれる際も、直接的描写はほとんどなく、自然の変化や流行の事柄などに置き換え、それらに語らせるなどの手法で一定の品位を保ち婉曲に描かれ、話の把握にはこの間接的描写への理解が要求される[注 13]。源氏物語は、800首あまりから成る和歌集の側面を持つ物語とも言え、その鑑賞に和歌の理解は欠かせず、また、平安中期の政治、文化、常識、風習、社会制度に囲まれて生活する千年前の読み手(主に皇族・貴族階級)を対象にして書かれており、現代の読み手は、これらを知り理解することも物語の把握に必要となる[25][26]

源氏物語が完成した頃、紫式部の支援者藤原道長の権力に陰りが見え始めその腐敗政治への民衆の不満で社会が不安定化していたが[注 14]、源氏物語は初出当初より貴族を中心に好評を博し次々と写本が繰り返されて読まれた。当時、貴族階級の男女ともに和歌は必須で重要だったが、漢文については対照的で、漢文の読み書きができず漢籍や漢詩がわからない者が多かった女性貴族に対し[10]政治行政の公的文書は漢文で書かれたため[7]、男性貴族は漢文の読み書きが必須で漢籍漢詩の教養も重視された。そのため、国風文化の影響のもと『竹取物語』をはじめ主に平仮名(変体仮名)で書かれた物語作品は貴族女性やその子供向けの読み物として、漢籍漢詩そして和歌に比べて低く見られた時代で[10]、源氏物語も他の物語同様に平仮名(変体仮名)で書かれたが、紫式部の漢籍漢詩和歌への知識と見識の深さが随所に生かされ、それらの知識が必須の男性貴族からも学べるとして読まれ[10][28]一条天皇からも評価された[注 15]

その150年ほど後の平安時代末期、栄華を誇った貴族階級の没落と武士階級の台頭という時代の変わり目に、源氏物語は、「絵」と「詞書(説明文)」から成る「源氏物語絵巻」として絵画化された。現存する絵巻物のうち、徳川美術館五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず30ヵ国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれている[30]
題名紫式部和歌百人一首 57番より「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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