源明
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 凡例源明
時代平安時代初期
生誕弘仁5年(814年[1]
死没仁寿2年12月20日853年2月1日
改名明→素然(法名)
別名横川宰相入道
官位正四位下参議
主君淳和天皇仁明天皇清和天皇
氏族嵯峨源氏
父母父:嵯峨天皇、母:宅刀自(飯高岳足の娘)
兄弟有智子内親王潔姫正良親王正子内親王、貞姫、、全姫、、明、善姫、秀良親王忠良親王業良親王、基良親王、業子内親王、秀子内親王、俊子内親王、芳子内親王繁子内親王、基子内親王、仁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王、淳王、、澄、、賢、継、若姫、密姫、端姫、盈姫、更姫、神姫、容姫、吾姫、声姫、年姫、良姫
妻橘時子(橘氏公の娘)
、遠
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源 明 (みなもと の あきら)は、平安時代初期の公卿嵯峨天皇の皇子(嵯峨第五源氏)。官位正四位下参議。横川宰相入道と号す。出家後の法名は素然。
経歴

淳和朝末の天長9年(832年)に无位から従四位上直叙され、大学頭に任ぜられる。

仁明朝でも大学頭を務める一方で、承和5年(838年加賀守、承和6年(839年近江守、承和9年(842年播磨守と地方官を兼ね、同年左京大夫に遷る。この間の承和7年(840年淳和天皇崩御の際に山作司を務めている。承和13年(846年正四位下刑部卿に叙任されたのち、承和14年(847年越中守嘉祥元年(848年阿波守を兼ね、嘉祥2年(849年)参議に任ぜられ公卿に列した。

嘉祥3年(850年)3月に兄・仁明天皇が崩御すると、同年12月に出家して法名素然を名乗る。出家後は横川に住んだことから、横川宰相入道と呼ばれた。仁寿2年12月20日(853年2月)に横川で卒去。享年40。
人物

明朗である一方、理解が早く賢かった。父・嵯峨天皇は皇子達に才学があることを望んだが、明に優れた才能があることを知って、により対策に挑ませたという。初め勅に従い勉学に励み、諸子百家をほぼ閲覧し終える程であった。しかし、嵯峨上皇が崩御した後に、愛慕して恨み、誰のためにこんな事をしているのか、と言って学業を止めてしまった。のちに、仏道に帰依して俗世間を遠く離れ、遂に出家して山中で没した。人々はその節操を気高いとして、心に感じ慕ったという[2]
官歴

六国史』による。

天長9年(832年) 正月7日:従四位上(直叙)。大学頭

承和5年(838年) 正月13日:兼加賀守

承和6年(839年) 正月11日:兼近江守

承和9年(842年) 正月13日:兼播磨守[3]。7月:服解(嵯峨上皇服喪)。8月:復任。8月11日:左京大夫。9月8日:兼播磨守

承和13年(846年) 正月7日:正四位下。正月13日:刑部卿

承和14年(847年) 正月12日:兼越中守

承和15年(848年) 正月13日:兼阿波守

嘉祥2年(849年) 2月27日:参議

嘉祥3年(850年) 12月:出家

仁寿2年(852年) 12月20日:卒去

系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

父:嵯峨天皇

母:飯高宅刀自 - 飯高岳足女[4]

妻:橘時子[3] - 橘氏公の娘

長男:源舒(828年 - 881年)


生母不明の子女

次男:源建

男子:源頴(? - 879年)

男子:源遠


脚注^公卿補任』の享年90に従うと763年生となるが年代的に合わない。
^日本文徳天皇実録』仁寿2年12月20日条
^ a b 『公卿補任』
^ 鈴木真年『百家系図稿』巻6,飯高朝臣

参考文献

公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年

『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年

森田悌続日本後紀』(上下巻)講談社学術文庫、2010年

宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年


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