凡例源 師房
源師房『前賢故実』より
時代平安時代中期
生誕寛弘5年(1008年)
死没承保4年2月17日(1077年3月14日)
改名万寿宮(幼名)→資定王→師房
別名土御門右大臣
官位従一位、右大臣
主君後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇
氏族村上源氏
父母父:具平親王、養父:藤原頼通、母:為平親王の次女
兄弟隆姫女王、祇子女王、?子女王、師房、藤原頼成
妻藤原尊子、藤原頼宗の娘、源憲清
源 師房(みなもと の もろふさ、寛弘5年〈1008年〉 - 承保4年〈1077年〉)は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。中務卿・具平親王の長男。官位は従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。 幼名は万寿宮。始め資定王(すけさだおう)と称すが、生後まもなく父・具平親王を亡くしていたことから、姉・隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となった(ただし、当時の実態とすれば養子とほぼ同様の意味に解する事ができる)。 後一条朝の寛仁4年(1020年)正月に従四位下に叙せられ、12月に元服と同時に、源朝臣姓を賜与されて臣籍降下し師房と改名した。「師房」の名は頼通が授けた。なお、頼通は自らが選んだこの名を気に入り、後に生まれた自分の2子に「師房」の一字を用いて通房・師実と命名したという。なお、通房・師実は共に師房の娘を妻に迎えている。同年閏12月に侍従に任官し、治安3年(1023年)右近衛権中将に遷る。 万寿元年(1024年)3月に藤原道長の五女・尊子(頼通の異母妹)を妻に娶る[1]。なお、尊子以外の藤原道長の娘は全て天皇・親王(小一条院)の妃となっており、師房が唯一人臣として道長の婿となっている。なお、師房は道長の婿になったことにより、同年9月には正四位下に叙せられると、2日後に続けて従三位に叙せられる異例の昇進を果たし、弱冠15歳で公卿に列した。摂関家と姻戚を結んで密接な関係を築いたことにより師房は村上源氏の地位を強力に高め[2]、のちに「源氏といえども土御門右丞相(師房)の子孫は、御堂(道長)の末葉に入る」と言われるほどになった[3]。 公卿昇進後も、万寿3年(1026年)権中納言、長元2年(1029年)正三位次いで従二位、長元8年(1035年)権大納言と頼通の猶子として順調に昇進を果たす。またこの間、敦良親王(のち後朱雀天皇)・親仁親王(のち後冷泉天皇)と二代続けて春宮権大夫を務めた。 師房は養父の頼通と親密な関係を築いて周囲もそれを認識しており、また頼通も師房を厚く信頼していた。具体的には以下のような事例がある[4]。 その後、頼通・教通・頼宗ら道長の子息が長命を保ったこともあり、師房は約30年に亘って権大納言に留まる。後冷泉朝の康平8年(1065年)右大臣・藤原頼宗の薨去に伴って内大臣の官職が空く。師房は筆頭の権大納言であったが、左大臣氏長者・藤原教通の子息で将来摂関家を継ぐ可能性がある権大納言・藤原信長も有力な候補者であった。結局、師房が内大臣に任ぜられ、左大臣・源重信以来約70年ぶりに源氏から大臣職に就任した(信長は正官の大納言に昇任)。この人事については、頼通および上東門院彰子の関与が大きく影響しており、特に頼通にとっては頼通・師実と教通・信長の摂関職継承争いも背景にあったことが推察される[6]。 治暦4年(1068年)後三条天皇の即位に前後して頼通が関白を辞して宇治に隠棲するが、師房は頻繁に宇治を訪問し、師房は頼通の片腕となり私的な面においても補佐役を務めていた様子が窺われる[7]。延久元年(1069年)6月に関白左大臣・藤原教通は左大臣を辞して大臣のポストを繰り上げ、空いた内大臣に子息の信長を就けようとする。師房はこの人事について、宇治にいる頼通に伝えること、頼通の了解が得られれば後三条天皇に奏上することを、教通から命ぜられる[8]。こうした摂関家内の人事に関して仲介役を任せられるほど、師房は頼通との親密な関係について教通からも認識されていたと想定される[7]。師房はまもなく宇治を訪問して頼通に会うが[9]、この人事は了解を得られたらしく、8月になって師房が右大臣に信長が内大臣に昇任されている。白河朝初頭の延久6年(1074年)従一位に至る。 承暦元年(1077年)正月中旬より疱瘡を患い重態に陥る。2月13日に致仕の上表を行うが、17日に辞表は返却されて太政大臣に任ずべき宣旨が下されるが、同日に出家し薨去。享年70。最終官位は右大臣従一位。 高い学才を誇り、著書に『叙位除目抄』『土右記 一方で漢詩・和歌にも秀で『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集にも計10首入集している。また、承保3年(1076年)白河天皇の大井河行幸における和歌の序文が『本朝続文粋』に採られている[12]。
経歴
長久元年(1040年)小除目を行う日に関白・藤原頼通が体調不良(風病)を理由に参内に難色を示した。後朱雀天皇は関白が参入しなければ除目が行えないとして、本来天皇の使いを行うべき蔵人頭・藤原資房を派遣して再三の説得を行うが、これが不調に終わると、天皇は権大納言の高官にある師房を召し、頼通邸に派遣して説得に当たらせた[5]。
長久元年(1040年)ある案件について、後朱雀天皇が関白・藤原頼通の意向を確認するように蔵人頭・藤原資房に命じたところ、当案件に関しては師房が天皇に対して内々に「定」を奏上したものであるのに、また頼通の確認を取るのか、と資房は述べた[5]。師房が奏上した「定」は当然頼通の意向に沿った内容であるはずで、資房は再度頼通に確認する必要性に疑問を呈したものと想定される[4]。
人物