凡例源師俊
時代平安時代後期
生誕承暦4年(1080年)
死没永治元年12月7日(1142年1月5日)
改名俊仲→師俊
別名塔の本の入道中納言
官位従三位、権中納言
主君堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇
氏族村上源氏
父母父:源俊房、母:平重経
源 師俊(みなもと の もろとし)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の子。大納言・源師忠の養子。官位は従三位・権中納言。 白河院政期前期の寛治4年(1090年)従五位下に叙爵。弾正少弼・兵部権大輔・民部権大輔を務める一方で、嘉承2年(1107年)従五位上、永久3年(1115年)正五位下と昇進した。 永久4年(1116年)右少弁に任ぜられると、保安3年(1122年)左少弁、保安4年(1123年)右中弁、保安5年(1124年)従四位下、大治元年(1126年)従四位上、大治4年(1129年)正四位下、大治5年(1130年)左中弁と弁官を務めながら昇進する。この間の大治2年(1127年)には大原野祭行事に欠席したため、一時右中弁を止められている。 鳥羽院政期初頭の天承元年(1131年)蔵人頭兼右大弁となり、長承2年(1133年)参議として公卿に列した。参議任官後も左右大弁を兼ねる一方で、皇后・藤原泰子の皇后宮権大夫も務め、長承3年(1134年)には従三位に叙せられている。長承4年(1135年)権中納言に至り、20年近くに亘った弁官の職を離れた。 保延2年(1136年)5月13日に病のため出家し、塔の本の入道中納言と称された。永治元年(1141年)12月7日薨去。享年62。 元永元年(1118年)10月2日の「内大臣忠通歌合」などに参加するなど歌人として活発に活動していたらしく、『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に10首入集している[1]。漢詩にも優れていたとされるが[2]、現在伝わっているのは『和漢兼作集 注記のないものは『公卿補任』による。
経歴
人物
官歴
寛治4年(1090年) 正月7日:従五位下
承徳3年(1099年) 正月:弾正少弼
康和5年(1103年) 2月30日:兵部権大輔
長治3年(1106年) 3月14日:昇殿
嘉承2年(1107年) 正月7日:従五位上(輔労)。9月19日:止昇殿(堀河天皇晏駕)
天仁元年(1108年) 日付不詳:昇殿
天仁3年(1110年) 正月28日:民部権大輔
永久元年(1113年) 9月4日:丹波守
永久3年(1115年) 9月21日:正五位下(上皇御幸宇治賞)。12月16日:相伝尾張守
永久4年(1116年) 正月30日:右少弁
元永2年(1119年) 12月15日:去守
保安3年(1122年) 12月22日:左少弁[3]
保安4年(1123年) 12月20日:右中弁[3]
保安5年(1124年) 正月6日:従四位下(弁労)。正月22日:兼備前介
大治元年(1126年) 12月23日:従四位上(治国)
大治2年(1127年) 11月13日:停右中弁(依大原野祭行事欠也)[3]。