源実朝
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 凡例源 実朝
源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)
時代鎌倉時代前期
生誕建久3年8月9日1192年9月17日
死没建保7年1月27日1219年2月13日
享年28(満26歳没)
改名千幡(幼名)→実朝
別名将軍家、羽林、右府、鎌倉殿、鎌倉右大臣
戒名大慈寺殿正二位丞相公神儀
墓所亀谷山寿福寺金剛三昧院白旗神社
官位(官職)右大臣、(位階)正二位
幕府鎌倉幕府 3代征夷大将軍
(在任:1203年 - 1219年
氏族清和源氏頼信河内源氏
父母父:源頼朝、母:北条政子
兄弟千鶴丸?、大姫頼家貞暁三幡、実朝
西八条禅尼坊門信清の娘)
子実子:なし
猶子公暁
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源 実朝(みなもと の さねとも、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:源 實朝󠄁)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍鎌倉殿

鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男[注釈 1]として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は初め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。

朝廷に重んじられ官位の昇進も早く、若くして公卿に補任され、武士として初めて右大臣(但し太政大臣には平清盛が任ぜられていた)に任ぜられた。しかし、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。
生涯
出生

建久3年(1192年)8月9日の刻、鎌倉で生まれる[注釈 2]。幼名は千幡。父は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母はその正妻・北条政子。乳母は政子の妹・阿波局大弐局ら御所女房が介添する。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ、面々に千幡を抱かせる。建久10年(1199年)に父が薨去し、兄の源頼家が将軍職を継ぐ。
三代鎌倉殿就任

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い、伊豆国に追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、千幡への家督継承の許可を求めた。朝廷は異例ながらこれに応じ、7日に千幡を従五位下征夷大将軍に補任した[注釈 3]

10月8日、北条時政邸において12歳で元服し、後鳥羽院の命名により、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元小山朝政安達景盛和田義盛ら百余名で、理髪は祖父・北条時政、加冠は門葉筆頭・平賀義信が行った。24日にはかつて父が務めた右兵衛佐に任じられる。実朝は朝廷を生涯重んじた。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。

元久元年(1204年)12月、京より後鳥羽の従妹でもある後鳥羽の寵臣・坊門信清の娘(西八条禅尼)を正室(御台所)に迎える。『吾妻鏡』によれば、正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ幼く、この決定は実際は時政と政子の妥協の産物とする説もある[注釈 4]。元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。
騒乱と和歌

系譜

源義朝 北条時政 牧の方     
 
                   
     
源頼朝 北条政子 北条義時 坊門信清
  
                    
           
大姫 源頼家 源実朝 西八条禅尼 
 
                

    公暁         


岳亭春信

元久2年(1205年)4月、12首の和歌を試作する。6月、畠山重忠の乱が起こり、北条義時時房和田義盛三浦義村らが鎮める。乱後の行賞は政子により計らわれ、実朝の幼年の間はこの例によるとされた。閏7月19日、時政邸にあった実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れわたる。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れた。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて実朝のいる義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国北条に追われ、執権職は義時が継いだ(牧氏事件)。9月2日、後鳥羽が勅撰した『新古今和歌集』を京より運ばせる。和歌集はいまだ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見ることを望んだ。

建永元年(1206年)2月4日、北条義時の山荘に立ち寄り、北条泰時東重胤、内藤知親らと歌会を催す。2月22日、従四位下へ昇り、10月20日には母の命により兄・頼家の次男である善哉を猶子とする。11月18日、歌会で近仕していた東重胤が数か月ぶりに鎌倉へ帰参する。実朝はかねてより和歌を送って重胤を召していたが、遅参したために蟄居させる。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ、蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べ、重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、重胤の詠歌を実朝に献じて重胤を庇った。実朝は重胤の歌を3回吟じると、門外で待つ重胤を召し、歌のことを尋ね許した。承元元年(1207年)1月5日、従四位上に叙せられる。

承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。回復まで2か月かかった重症で、実朝はそれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の瘡痕を恥じて参拝を止めた。幕府の宗教的な象徴である鶴岡八幡宮への参拝は、将軍の公的行事の中でも最も重要なものの一つであり、その期間には将軍が箱根権現伊豆山権現三嶋大社に参詣し幕府の安泰を祈願する二所詣も行われていない。承元3年(1209年)4月から建暦2年(1212年)11月の間に書かれたと推定される慈円の書状には、その期間の実朝は籠居していたとあり、やはり同時期に書かれたと推定される別の慈円書状には幕府への相談先として実朝だけではなく義時・政子・広元の名が記されているため、実朝は疱瘡による精神的打撃から政務のほぼ全般を行い得なかったのではないかと推測する見解がある[3][4]


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