凡例源 定
時代平安時代初期?前期
生誕弘仁6年(815年)[1]
死没貞観5年1月3日(863年1月25日)
別名四条大納言、賀陽院大納言(陽院大納言とも)、楊梅大納言
官位正三位、大納言、贈従二位
主君淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇
氏族嵯峨源氏
父母父:嵯峨天皇、母:百済王慶命
源 定(みなもと の さだむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第六源氏)。淳和天皇の猶子。官位は正三位・大納言、贈従二位。四条大納言または賀陽院大納言(陽院大納言とも)、楊梅大納言と称される[2]。 幼少より父・嵯峨天皇から寵愛を受け、退位後に叔父・淳和天皇の猶子となる。淳和天皇からも実の皇子以上に寵愛を受け、天皇の寵姫・永原原姫をもって母として養育させたことから、世上「定には二父二母あり」と称された。天長4年(827年)淳和天皇は定を親王にすることを、奉書により嵯峨上皇に請うが、受け入れられなかった[3]。 天長5年(828年)源朝臣姓を賜与され、天長8年(831年)元服する。淳和朝末の天長9年(832年)には従三位に直叙されるとの特別な待遇がなされ、18歳で公卿に列した。翌天長10年(833年)仁明天皇の即位後に参議に任ぜられ、仁明朝では中務卿を長く務めた。承和7年(840年)養父の淳和上皇が崩御すると服喪のため参議を辞し、承和9年(842年)にも実父の嵯峨上皇崩御の服喪のため一時的に官職を辞している。承和14年(847年)再び参議に復任する。仁明朝末の嘉祥2年(849年)中納言に昇進した。 嘉祥3年(850年)文徳天皇の践祚後まもなく正三位に昇叙される。仁寿2年(852年)15年近く務めた中務卿から右兵衛督に遷ると、翌仁寿3年(853年)左兵衛督と、文徳朝では武官を兼帯した。 天安2年(858年)清和天皇の即位後まもなく右近衛大将に任ぜられ、翌貞観元年(859年)には大納言に至る。貞観5年(863年)正月3日薨去。享年49。最終官位は正三位大納言兼右大将。即日従二位を追贈された。 「深宮の内に養長して未だ嘗て世俗の艱難を知らず」と評され、性格は温雅であった。音楽を愛好し、座右に鼓鐘を置いて、退庁の後は自ら弾じて楽しんだという。容姿は背が高く堂々としていた[3]。 注記のないものは『六国史』による。
経歴
人物
官歴
天長5年(828年) 日付不詳:臣籍降下(源朝臣)[4]
天長8年(831年) 2月7日:元服
天長9年(832年) 正月7日:従三位(直叙)。3月26日:美作守[4]
天長10年(833年) 8月25日:参議。11月1日:治部卿、美作守如故
承和元年(834年) 2月5日:中務卿
承和5年(838年) 正月13日:兼播磨守、中務卿如故
承和7年(840年) 8月8日:辞参議(淳和上皇服喪)、食封100戸
承和9年(842年) 7月:辞官(嵯峨上皇服喪)。9月:復本官
承和14年(847年) 正月12日:参議
承和15年(848年) 正月13日:兼尾張守
嘉祥2年(849年) 正月13日:中納言[4]。正月:辞官(母服喪)。3月:復本官
嘉祥3年(850年) 4月11日:帯剣。4月17日:正三位
仁寿2年(852年) 8月:兼右兵衛督、止中務卿[4]
仁寿3年(853年) 正月:兼左兵衛督[4]
斉衡4年(857年) 6月18日:辞左兵衛督[4]
天安2年(858年) 11月21日:右近衛大将
貞観元年(859年) 12月21日:大納言
貞観5年(863年) 正月3日:薨去(正三位大納言兼右大将)、贈従二位
系譜(百済王教俊の娘) - 尚侍
生母不詳の子女
男子:源包
男子:源宥
男子:源至
男子:源精
男子:源唱
脚注^ 『日本三代実録』貞観5年正月3日条の薨伝に記された没年齢49歳より逆算。
^ 源定 。コトバンク
^ a b 『日本三代実録』貞観5年正月3日条
^ a b c d e f 『公卿補任』
参考文献
森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年
『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137