源宗寺_(熊谷市)
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源宗寺

本堂(2018年12月)
所在地埼玉県熊谷市平戸644
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度08分33.3秒 東経139度24分31.9秒 / 北緯36.142583度 東経139.408861度 / 36.142583; 139.408861座標: 北緯36度08分33.3秒 東経139度24分31.9秒 / 北緯36.142583度 東経139.408861度 / 36.142583; 139.408861
山号藤井山[1]
宗派曹洞宗
本尊薬師如来観世音菩薩
創建年正保年間
開山源宗大法師[1]
開基雅楽助[1]
正式名曹洞宗藤井山源宗寺
札所等忍三十四か所第5番札所
文化財木彫大仏座像(薬師如来像、観世音菩薩像)
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源宗寺(げんそうじ)は、埼玉県熊谷市平戸にある寺院である。かつては鴻巣市勝願寺末寺として浄土宗の寺院であったが、江戸時代末期には住職が不在となって近隣の寺が寺務を代行するようになり、明治維新以降、いったん廃寺となるも戦後復興し、2019年現在、熊谷市久下の曹洞宗寺院、東竹院が寺務を兼務している。また源宗寺には江戸時代初期作と推定される、台座を含めて像高約4メートルの木像寄木造の薬師如来像、観世音菩薩像が現存しており、「平戸の大仏(おおぼとけ)」として知られている。平戸の大仏は埼玉県内の木像寄木造の仏像としては最大級の大きさであり、熊谷市指定有形文化財に指定されている[2]
源宗寺を建立、所有した藤井家

源宗寺は江戸時代初期から後期にかけて、武蔵国埼玉郡平戸村の名主を務めていた藤井家の手によって建立された[3]。藤井家の祖に当たる雅楽助は、肥前国松浦郡平戸の出身と伝えられており、平戸出身者である雅楽助にちなんで「平戸」という地名が名付けられたとの説がある[† 1][4]

1608年慶長13年)、雅楽助は検地のために平戸村にやって来た役人の案内役を務めたことが記録に残っている。村内の有力者であった雅楽助は、源宗寺の建立の他、肥前国松浦郡平戸から住吉大明神を勧請し、平戸の氏神として他国明神社を建立したと伝えられている[5]

やがて藤井家の当主は平戸村の名主を世襲するようようになった。平戸村は17世紀忍藩幕領、幕領と旗本領との相給、そして再び忍藩領と支配関係が目まぐるしく変遷したが、変わることなく名主職を務め続けた。18世紀前半の享保年間には、藤井家は平戸村全体の約4分の1の土地を所有する大地主となった[6]

18世紀半ば過ぎの明和年間には、年貢完済に苦労するようになるなど、家勢に衰えも見られるようになったが、19世紀文化年間までは平戸村で10以上の土地を所有する、村内随一の大地主の地位を保ち続けた。しかし1831年天保2年)には永年勤めてきた名主職を他家に渡すことになり、その後は百姓代を務めるようになった[7]。また藤井家は18世紀末からは水車を使用した事業を行っていた。水車は1932年(昭和7年)に解体されたが、1955年(昭和30年)頃までは製麺所の経営を続けていた[8]

江戸時代以降、源宗寺は建立者である藤井家が寺の所有、管理を行い続けていた[9]。2019年現在、寺の本堂は源宗寺護持会が所有し、藤井家は管理者代表を務めている[10]
寺と大仏の建立
寺の建立源宗寺本堂を横から見た光景。向拝と向拝の棟上の龍の彫刻が見える。

源宗寺の創建時期は17世紀半ばの正保年間と言われている。創建者は藤井家の祖、雅楽助であり[† 2]、建立当時の寺は草庵のようなものであったとされている。草庵には初代住職として源宗大法師が常住したと伝えられている[11]1662年寛文2年)、源宗大法師は鴻巣の勝願寺十四世の玄誉上人に対して、念仏一万日を唱えながら薬師、観音像を建立することを願い出て、許可されたと言われている[12]。そして勝願寺第十五世の念誉上人から、開山の源宗大法師にちなみ源宗寺という寺号が授けられた。また山号は建立者、藤井家の祖、雅楽助にちなんで藤井山とされた[13]

なお、鴻巣の勝願寺は僧侶の教育養成機関である檀林が設立されていた。勝願寺での僧侶教育養成機能は、同寺が多くの末寺を擁した本寺としての機能を強化することに繋がった。1632年寛永9年)には12か所に過ぎなかった末寺は、1695年(元禄8年)の記録では40か所に増加している。源宗寺も1695年には勝願寺の末寺となっていたことが確認できる[14]

源宗寺の本堂は後述の大仏と同時期に建立されたと考えられている[15]。かつては千日堂とも呼ばれていて、建物の大きさは5、4間で、1間の裳階を巡らせている。また建物の南面には2間、2間の向拝が設えられている[16]。向拝のには龍の彫刻が飾られており、左右には阿吽狛犬、そして向拝の柱にも木彫りの狛犬が取り付けられている[17]

屋根は重層寄棟造、瓦葺である。建物の規模には大きな違いはあるが、源宗寺本堂は東大寺大仏殿をモデルとして建造したと考えられている[18]。なお後述のように建造後、源宗寺は洪水の被害を受けるなどしてしばしば修復工事が行われている。1952年(昭和27年)に行われた修復工事の際に、柱が切り詰められた痕跡が確認されており、かつての本堂は現状のものよりも規模が大きかったと推定されている[19]
薬師如来像、観世音菩薩像の建立源宗寺本尊の薬師如来像、観世音菩薩像。右が薬師如来像、左が観世音菩薩像。「平戸の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれている。

源宗寺の本尊である薬師如来像、観世音菩薩像は像高約3.5メートル、台座を含めると約4メートルとなる。木像寄木造で像の表面に金箔を貼った上から黒を塗ることによって、像全体が光沢を帯びるような造形がなされている。なお、源宗寺の薬師如来像、観世音菩薩像は木像寄木造の仏像としては埼玉県内では最大級の大きさである[20]

薬師如来像、観世音菩薩像は、前述のように1662年(寛文2年)に、源宗寺初代住職の源宗大法師が、念仏一万日を修しながら造ったと言われている。『新編武蔵風土記稿』にも本尊の薬師如来像、観世音菩薩像は開山の源宗作と伝えられているとしており[1]、両像の様式的にも江戸時代初期のものと考えられている[21]

一方、源宗寺の中興と称される5世住職の含誉上人の1701年元禄14年)に、仏師 頓誉宗円、江戸弥兵衛、塗師 中西村弥兵衛、沼黒太兵衛の手によって薬師如来像、観世音菩薩像が再興され、1702年(元禄15年)春に大供養が行われたとの記録も残っている[22]


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