源孝道
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 凡例源 孝道
時代平安時代中期
生誕不明
死没寛弘7年(1010年
官位正五位下越前守
主君一条天皇
氏族清和源氏
父母父:源元亮、母:源経基
養父:源満仲
兄弟養兄弟:頼光頼親頼信頼平
頼明頼貞頼範、頼尋、
源賢(賢快)、藤原頼親室、源敦室ほか
子永成、政隆
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源 孝道(みなもと の たかみち)は、平安時代中期の貴族漢詩人清和天皇の第九皇子である貞真親王の孫で、従五位下・源元亮の子。伯父(または叔父)の満仲の養子。官位正五位下越前守
経歴

弾正少弼左衛門権佐大学頭などの京官を務める一方で、大和守山城守畿内国司も歴任した。この間の長保3年(1001年)大和国の百姓より愁文が提出されている[1]

寛弘4年(1007年越前守に任ぜられるが、寛弘7年(1010年)3月30日以前に卒去。最終官位は越前守正五位下。孝道が在任中のまま没したため、急遽木工頭大江雅致が後任として越前守に任ぜられている[2]

一条朝に盛んに行われた作文会の講師を務めるなど[3]、同朝の文人としての活躍が見られ、『本朝麗藻』『類聚句題抄』『擲金抄』に作品が収められている。同時代の漢詩人である大江匡衡から「凡位を越ゆる者」と評された[4]
官歴

時期不詳:
文章生[5]

正暦4年(993年) 11月15日:見弾正少弼[6]

長徳元年(995年) 8月28日?:右衛門権佐[7]

長徳2年(996年) 6月7日:見検非違使[6]

長徳4年(998年) 正月25日:大和守[7]

長保元年(999年) 8月27日:見大学頭兼大和守従五位上[8]

寛弘2年(1005年) 2月16日:見右衛門権佐山城守正五位下[9]

寛弘4年(1007年) 4月28日:越前守[10]

寛弘7年(1010年) 3月30日以前:卒去[2]

系譜

尊卑分脈』による。

父:源元亮

母:源経基の娘

生母不明の子女

男子:源永成[11]

男子:源政隆


脚注^ 『権記』長保3年12月2日条
^ a b御堂関白記寛弘7年3月30日条
^ 『御堂関白記』寛弘元年閏9月12日条
^江談抄 五』詩事。
^ 『二中歴』
^ a b 『小右記』
^ a b 『衛門府補任』
^ 『三条家本北山抄裏文書』(『平安遺文』385)
^ 『北山抄裏文書』(『平安遺文』119)
^ 『御堂関白記』寛弘4年4月28日条
^ 『勅撰作者部類』では孝道の孫とする。

出典

上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年

市川久編『衛門府補任』続群書類従完成会、1996年

宮崎康充 編『検非違使補任 別巻』八木書店、2006年

『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年


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