源在子
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源 在子
続柄
後鳥羽天皇後宮、土御門天皇生母

称号承明門院
身位従三位准三后女院
出生承安元年(1171年

死去正嘉元年7月5日1257年8月15日)(享年87)

配偶者後鳥羽天皇
子女土御門天皇
父親能円(養・源通親
母親藤原範子
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源 在子(みなもと の ありこ/ざいし、承安元年(1171年) - 正嘉元年7月5日1257年8月15日))は、第82代後鳥羽天皇で第83代土御門天皇国母[1]女院院号は承明門院(しょうめいもんいん)。父は法勝寺執行能円で母は藤原範兼の女藤原範子[2]源通親の養女。同母弟に久我通光土御門定通中院通方がいる。法名は真如妙[1]
略歴

承安元年(1171年)、能円と藤原範子との間に生まれる[1]。父の能円は平清盛正室継室平時子の異父弟であった関係から平氏政権では法勝寺の執行に任ぜられている。母の範子は高倉天皇の第四皇子の尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母を務めた[3]寿永2年(1183年)、平家が西国に落ちた際に能円が平家に同行したため範子は源通親と再婚した[1][4]。後に通親は在子を養女にしている[1]

村上源氏中院流出身の公家である通親は、平氏政権では平家と良好な関係を築き着実にその地位を固めていた。しかし、治承5年(1181年)に院政を敷いていた高倉上皇が崩御、続いて清盛が死去し、後白河法皇の院政が復活するとそれまで良好であった通親と平家の関係は微妙なものになっていく。平家が都落ちした際には通親は後白河法皇とともに比叡山に逃れ、平家と対決することになる。平家は安徳天皇を伴って都落ちしたため、後白河法皇の院宣により尊成親王が践祚した。

その後、通親は在子の母の範子と結婚したが、範子は新帝後鳥羽天皇の乳母であるため、通親は新帝の乳母父の地位を得ることになった。文治元年(1185年)に平家が壇ノ浦の戦いで滅亡。建久元年(1190年)には後鳥羽天皇が元服摂政九条兼実の女九条任子中宮に冊立された[5][6]。通親は引き続き後白河法皇の側近として院政を支えていたが、建久3年(1192年)に後白河法皇が崩御すると、前年に関白に転じていた兼実は源頼朝への征夷大将軍任命に賛成し、朝廷内では頼朝の支援を受けた兼実が実権を握りつつあった。通親にとって兼実は強力な政敵であった。

この頃、通親の養女の在子は後鳥羽天皇の後宮に入った。建久6年(1195年)8月に兼実の女で中宮の任子が昇子内親王を出産した[6]。一方、同年12月には在子が為仁親王(後の土御門天皇)を出産した[6]。将来、天皇の外祖父として実権を握る足掛かりを得た通親はこれを機に丹後局ら反兼実派の旧後白河側近と連携し兼実の失脚を謀った[6]。兼実は関白の地位を追われ中宮任子は内裏から退出させられた(建久七年の政変[5][7]

建久9年(1198年)、後鳥羽天皇は為仁親王に譲位し院政を敷く。新帝土御門天皇の外祖父である通親は3年前に権大納言に昇任していたが、これを機に院庁別当を兼任することになった。在子は正治元年(1199年)に従三位准三后に列せられ建仁2年(1202年)には院号宣下を受け承明門院となる[1]

建久七年の政変で兼実を失脚させ、新帝の外祖父となった通親の権勢は揺るぎないものと思われたが、正治元年(1199年)には兼実の子九条良経左大臣に昇進し、正治2年(1200年)には土御門天皇の弟の守成親王(後の順徳天皇、母は在子の母範子の父方の叔父藤原範季の女藤原重子(修明門院))が皇太弟とされた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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