源光_(公卿)
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この項目では、平安時代前期の公卿について説明しています。平安時代後期の天台宗僧侶については「源光 (僧)」を、源氏物語の登場人物については「光源氏」をご覧ください。

 凡例源光
時代平安時代前期
生誕承和12年6月2日845年7月9日
死没延喜13年3月12日913年4月21日
別名西三条右大臣
官位正二位右大臣正一位
主君清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族仁明源氏
父母父:仁明天皇、母:百済王豊俊の娘
兄弟道康親王宗康親王時康親王人康親王本康親王国康親王常康親王貞登成康親王、光、、新子内親王、親子内親王、平子内親王、柔子内親王、眞子内親王、重子内親王、久子内親王、時子内親王高子内親王
妻不詳
子静、浄、興、賢
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源 光(みなもと の ひかる、承和12年〈845年〉 - 延喜13年〈913年〉)は、平安時代前期の公卿仁明天皇皇子(第三源氏)。官位正二位右大臣正一位。西三条右大臣を号す。
経歴

第一親等の皇族ながら、多くの兄弟と共に姓を賜って臣籍降下する。貞観2年(860年従四位上に直叙され、翌貞観3年(861年次侍従に任ぜられる。のち、美作守相模権守讃岐権守と地方官を歴任。貞観18年(876年正四位下左兵衛督に叙任され、相模権守・播磨権守と引き続き地方官を兼帯した。

元慶8年(884年光孝天皇の即位後参議に任ぜられ公卿に列す。宇多朝に入り、寛平3年(891年従三位中納言、寛平9年(897年権大納言と昇進する。

醍醐朝において、昌泰2年(899年)大納言に昇進するが、昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変においては、藤原時平と結託し菅原道真を失脚させた張本人の一人とされ、道真の後任として正三位右大臣に叙任、邸宅の場所に因んで西三條右大臣と称された。のち、東宮傅右近衛大将を兼帯し、延喜3年(903年従二位に叙せられる。延喜9年(909年左大臣・藤原時平の薨去に伴い、太政官の首班を占めて左近衛大将を兼ね、翌延喜10年(910年)には正二位の高位に昇った。

延喜13年(913年)3月12日に鷹狩に出るが、不意に塹壕の泥沼の中に転落して溺死。遺体が上がらなかったことから、世人はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝わる。享年69。最終官位は右大臣兼左近衛大将正二位。死後、正一位追贈。なお、後任の右大臣には彼や時平とは違い、道真に好意を持っていた藤原忠平が就任した。
官歴

注記のないものは『日本三代実録』による。

貞観2年(860年) 11月16日:従四位上直叙

貞観3年(861年) 5月14日:次侍従

貞観7年(865年) 正月27日:美作守

貞観8年(866年) 3月2日:見散位

貞観14年(872年) 2月29日:相模権守[1]

貞観15年(873年) 2月22日:讃岐権守[1]

貞観18年(876年) 正月7日:正四位下[1]。正月14日:左兵衛督[1]

元慶5年(881年) 2月15日:兼相模守[1]

元慶6年(882年) 2月2日:播磨権守[1]

元慶8年(884年) 4月1日:参議、左兵衛督播磨権守如元

仁和3年(887年) 正月19日:丁母憂去職。3月29日:本官起之

仁和4年(888年) 3月7日:兼相模権守[1]

仁和5年(889年) 正月16日:兼備中権守[1]

寛平3年(891年) 3月19日:従三位中納言(超2人)[1]

寛平4年(892年) 2月21日:兼民部卿[1]

寛平5年(893年) 2月22日:兼右衛門督、止民部卿[1]。3月6日:検非違使別当[1]

寛平9年(897年) 6月19日:権大納言、兼按察使[1]

昌泰2年(899年) 2月14日:大納言[1]

昌泰4年(901年) 正月7日:正三位[1]。正月25日:右大臣[1]

延喜3年(903年) 正月7日:従二位[1]

延喜4年(904年) 2月10日:兼東宮傅[1]

延喜6年(906年) 8月25日:兼右近衛大将[1]

延喜9年(909年) 4月22日:兼左近衛大将[1]

延喜10年(910年) 正月7日:正二位[1]


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