源信明
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 凡例源 信明
源信明(狩野安信『三十六歌仙額』)
時代平安時代中期
生誕延喜10年(910年
死没天禄元年(970年
官位従四位下陸奥守
主君朱雀天皇村上天皇冷泉天皇
氏族光孝源氏
父母父:源公忠
兄弟信明、宏平、信孝、観教、澄観、勝観、寛祐、慈慶、源雅信
橘秘樹娘、紀頼子、中務敦慶親王の娘)
通理明子、井殿、国定、国盛、方国、重文、為相
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源 信明(みなもと の さねあきら)は、平安時代中期の貴族歌人光孝源氏右大弁源公忠の子。官位従四位下陸奥守。父と同じく三十六歌仙の一人。
経歴

承平7年(937年)父・公忠の五位蔵人辞任に替わり朱雀天皇六位蔵人に補任。式部丞を経て、天慶5年(942年従五位下若狭守に叙任される。

その後も、備後守信濃守越後守陸奥守など、朱雀村上冷泉の三朝に亘って受領として長く地方官を歴任し、治国の功労により天暦2年(948年)従五位上、天徳5年(961年正五位下安和元年(968年)従四位下と昇進した。

天禄元年(970年)卒去。享年61。最終官位は散位従四位下。
和歌

宇多上皇が崩御したときの哀傷歌を始めとして、村上天皇の名所絵屏風歌、朱雀天皇皇女・昌子内親王裳着の折の屏風歌など数多くの歌が残されている。女流歌人である中務とはかなり親密な関係にあったらしく、彼女との贈答歌は『信明集』にも一連の歌群として収録される。他にも源公平(信明の叔父)の三女や閑院大君(源宗于の娘)とも交渉があったらしい。

後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に22首入集[1]。家集に『信明集』がある。
官歴

『三十六人歌仙伝』による。

承平7年(937年) 正月16日:六位蔵人(父公忠辞五位蔵人)。8月3日:右衛門権少尉

天慶2年(939年) 2月:式部少丞

天慶4年(941年) 3月:式部大丞

天慶5年(942年) 3月29日:従五位下若狭守

天暦元年(947年) 2月:備後守

天暦2年(948年) 正月14日:従五位上(治国)

天暦7年(953年) 正月29日:信濃守

天徳2年(958年) 正月29日:越後守

天徳5年(961年) 6月8日:正五位下。10月13日:陸奥守

安和元年(968年) 12月5日:従四位下(治国)

天禄元年(970年) 日付不詳:卒去散位従四位下)

系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

父:源公忠

母:不詳

妻:橘秘樹の娘

男子:源通理


妻:紀頼子 - 典侍

女子:源明子 - 典侍、藤原説孝


妻:中務敦慶親王伊勢の娘)

女子:井殿[2] - 藤原伊尹


生母不明の子女

男子:源国定(?-977)

男子:源国盛(?-996?[3][4]

男子:源方国(?-998)

男子:源重文(?-999)

男子:源為相


脚注^ 『勅撰作者部類』
^ 『中務集』、『伊尹集』
^古事談
^ 但馬守常陸介讃岐守美作守を歴任し、長徳2年(996年)に越前守となったが、同年のうちに藤原為時にその座を奪われた(『大日本史料』2-2。


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