源俊明
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 凡例源俊明
時代平安時代中期 - 後期
生誕寛徳元年(1044年
死没永久2年12月2日1114年12月30日
官位正二位大納言
主君後三条天皇白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
氏族醍醐源氏高明流
父母父:源隆国、母:源経頼の娘
兄弟隆俊隆綱、俊明、隆基、国俊、公綱、定賢、隆覚、覚猷、長俊、隆信、藤原俊家室、橘俊綱正室
藤原師基の娘
能俊、実明、能明、明賢、憲明、俊源、増俊、隆絮、静観、藤原忠教継室
養子:国明
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源 俊明(みなもと の としあき)は、平安時代中期から後期にかけての公卿歌人醍醐源氏高明流、権大納言源隆国の三男。官位正二位・大納言。

祖父・源俊賢以来、3代続けて大納言の顕官に至った。『古事談』などに能吏としての逸話を残す一方、『続後撰和歌集』『続拾遺和歌集』等の勅撰和歌集和歌が入集している。
人柄と逸話

父・隆国は藤原頼通の側近として東宮時代の後三条天皇に甚だ無礼であった。そのため、即位後の後三条天皇は隆国の子息達を罪科に当てようと考えていた。しかし、長男・隆俊や次男・隆綱は共にその才能を愛され、天皇の近習として重用された。そこで天皇は三男の俊明にこそ鬱憤を晴らそうとしたが、内裏の火災の際の豪気な行動を高く買われ、その才能を愛でてかえって昇進させたという。

後三条天皇崩御後も、引き続きその息子の白河天皇の近習として重用され、退位後の院別当としても厚く信頼され、また剛直な人柄は廟堂に重きをなした。白河院政下、愛憎の別が激しく身分秩序を無視して気ままの叙位除目を行った上皇をたびたび諌めた。特に名高い逸話として以下のようなものがある。

嘉承2年(1107年)、5歳の鳥羽天皇が即位した際、天皇の外伯父・藤原公実が自ら摂政就任を主張し、公実と従兄弟にあたる白河院は悩んだ。だが、俊明は頼通・師実が摂関として廟堂に尽くすところ大きく、その嫡流である忠実を抑えて、公季以後、5代傍流であり続けた公実を摂関に就かせるのは不当であると言い切り、白河院を思い直らせたという[1]。以後、天皇との外戚関係の有無にかかわらず御堂流の正嫡が摂関を継承する制度が確立した。これにより摂関家嫡流が危機から救われた一方、外戚と摂関の分離が常態となることで摂関政治の再興は難しくなった。
系譜

父:
源隆国

母:源経頼の娘

妻:藤原師基の娘

男子:源能俊(1070-1134)


生母不明の子女

男子:源実明

男子:源能明

男子:源明賢

男子:源憲明

男子:俊源

男子:増俊

男子:隆絮(または隆?[2]

男子:静観(または静灌[3]

女子:藤原忠教継室


養子

男子:源国明(1064-1105) - 藤原師基と源定良の娘との間の子


脚注^ 「公季ヲモヒモヨラデ、ソノ子ムマゴ実成、公成、実季ト五代マデタエハテヽ、ヒトエノ凡夫ニフルマイテ代々ヲヘテ、摂政ニハサヨウノ人ノイルベキホドノツカサカハ」(『愚管抄』巻4)
^ 『僧綱補任』、『園城寺伝法血脈』
^ 『長者補任』、『仁和寺諸院家記』

参考文献

『国史大辞典 第13巻』
吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137

『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中央公論社


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