満洲還付条約
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ロシア帝国で作製された満洲(東三省)の地図(1901年サンクトペテルブルク

満洲還付条約(まんしゅうかんぷじょうやく、中国語: 俄国撤兵条約)または満洲還付に関する露清条約(まんしゅうかんぷにかんするろしんじょうやく)は、1902年4月8日ロシア帝国大清帝国の間で結ばれた条約[1]1900年に起こった北清事変(義和団の乱)において清国に出兵したロシアが清国東北部の領土(いわゆる「満洲」)一帯を占領し、乱後も満洲に駐兵を継続したことについて、他の列強や清国から批判を受けたロシアが、満洲からの撤退を3度にわたっておこなうことなどを清国との間で取り決めた条約である。満洲撤退条約(まんしゅうてったいじょうやく、満洲撤兵条約(まんしゅうてっぺいじょうやく)、満洲返還条約(まんしゅうへんかんじょうやく)などとも称する。中国では交収東三省条約(こうしゅうとうさんしょうじょうやく)と呼ぶ。
条約内容大清帝国東三省(いわゆる「満洲」) 南より、盛京省吉林省黒竜江省

1902年4月8日露暦3月26日、28年3月1日)に北京で調印された満洲還付条約(交収東三省条約)では、ロシア帝国は、満洲を大清帝国の一部として、清国政府の権威を同地に回復することを承諾し、なおかつ満洲をロシア軍占領以前の状態に復元することを約束した[2]。そして、満洲進駐のロシア軍を第1次から第3次までの3回に分け、それぞれ半年ずつの期間を設けて計1年半(18か月)かけて南から順に満洲全土から撤兵し、最終的には同地を清国の主権に返還することが取り決められた[3][4][5][6]

撤退次数撤退範囲撤退期限
第1次撤退盛京省西南部(遼河の線以南)からの撤退、および鉄道還付1902年10月8日
第2次撤退盛京省の残部(遼河以北)および吉林省からの撤退1903年4月8日
第3次撤退黒竜江省からの撤退1903年10月8日
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースにzh:交收?三省条?の原文があります。ロシアのレサール駐清公使

ただし、その条件として、
ロシア軍撤退完了まで満洲における清国軍の駐屯地と兵数規模はロシア軍務省との話し合いによって決められること

撤兵が済んだ後は清国側の自由に委ねることとするが、その後も兵の増減はロシア側に知らせること

清国政府はロシア軍が撤退した地域に他国軍の駐兵を許さないこと

南満洲における新規の鉄道敷設はあらかじめ露清両政府間で協議の上でなければ認められないこと

清国に返還された鉄道については、ロシアが経営修繕のために支払った費用を清国が負担すること

などが盛り込まれた[4]

交渉にあたったのは、ロシア側が駐清公使のパーヴェル・ミハイロヴィチ・レサール(ロシア語版)、清国側は慶親王奕?であった[3][7]。従来、露清交渉を担当してきたのは、しばしば親露的とみられていた北洋大臣李鴻章であったが、彼は1901年11月に死去し、代わって折衝にあたった慶親王は、小村寿太郎外相ほか日本の外交筋から多くの情報やアドバイスを受けた[3]。ロシア軍の満洲撤退は、この条約にもとづいて実行されることになったが、ロシアは果たしてこれらの規定をどの程度遵守するかが日本をふくむ列強の大きな関心事となった[2]
条約成立までの経緯
ロシアの満洲占領

山東省から起こった義和団の勢力は、1900年6月以降は北京をこえて満洲方面にも拡大し、ロシアが1896年露清密約で敷設権を得た東清鉄道への攻撃もなされるようになった[8][9]。東清鉄道南支線(のちの南満洲鉄道)は未だ建設途上であり、攻撃対象として被害を受けていた[10]。ロシアはこれに即座に反応し、皇帝ニコライ2世が進軍を命令、鉄道を守るため、15万を超える兵士が派遣された[8][10][注釈 1]満州でのロシア軍兵士

帝政ロシアは7月3日黒竜江に臨むロシア領ブラゴヴェシチェンスクにおける軽微な発砲事件を口実に戦闘を開始した(露清戦争)[2][8][注釈 2]。ロシア軍は、清国軍の抵抗を各地で撃破し、8月3日にハルビン、8月27日にチチハル、9月28日に遼陽、10月2日に奉天をそれぞれ制圧し、またたく間に満洲全土を占領した[8][9][12][13]。ロシアは8月25日、満洲の一時占領について、清国の領土保全や清国政府の幇助など4原則から成る口上書を日本はじめ関係各国に通告した[2]。しかし、実際には満洲の占領を恒常化させ、実質的な保護領化を強力に推し進めていった[2][8][14][注釈 3]。満洲にはロシアの軍政が敷かれ、遼東租借地司令官のエヴゲーニイ・アレクセーエフはロシア保護下に行政を回復しようとして、盛京将軍の増祺(中国語版)(ヅェンキ)との間で密約の交渉を進めた[2][15]。1900年11月11日、アレクセーエフと増祺は、9か条から成る満洲に関する露清協定(第二次露清密約)を締結した[2][15]。増祺はこの密約の内容を李鴻章に送って承認を求めたが、李は即時調印を踏みとどまるよう指示し、駐清ロシア公使と協議したうえで、以後はサンクトペテルブルクにおいて交渉することとした[2]。なお、露清の密約は1900年の年末には外部の知るところとなり、翌年はじめには密約内容の一端が『ロンドンタイムズ』によって報道され、列国もロシアの動向に注意を払うようになった[2][注釈 4]


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