満洲国皇帝
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満洲国皇帝
過去の君主


皇帝旗


愛新覚羅溥儀(康徳帝)

初代愛新覚羅溥儀
最終代愛新覚羅溥儀
称号執政(1932年-1934年)
皇帝(1934年-1945年)
宮殿 満洲国新京皇宮
始まり1932年3月9日(執政
1934年3月1日(皇帝
終わり1945年8月18日

称号:皇帝


敬称陛下
His Majesty the Emperor
His Imperial Majesty(H.I.M.)

満洲国皇帝(まんしゅうこくこうてい)とは、満洲国皇帝称号帝制移行前の執政についても本項で触れる。
概要
執政満洲国執政就任式

満洲国建国時の国家元首の称号は「執政」であった。愛新覚羅溥儀皇帝即位を確約した奉天特務機関長・土肥原賢二の説得を容れて満洲に来たものの、自分が就くのは執政であり、「陛下」ではなく「閣下」呼ばわりされたことに激怒したという。

関東軍は近い将来の帝制移行を約束したことで、溥儀はしぶしぶ執政就任に同意した。

執政在任中、「陛下」と呼んでくれた日本人は、側近の工藤忠侍従武官中将待遇)だけだったという。
皇帝即位満洲国皇帝玉座

建国2年後の1934年康徳元年)3月1日、溥儀は念願の皇帝に即位した。これにより万人から「陛下」と呼ばれる立場となり、関東軍もそれなりの対応で接するようになった。

皇帝の家政を司るために宮内府が設けられ、宮内府大臣が輔弼の責を負った。他に尚書府侍従武官処軍事諮議院祭祀府の皇帝直隷機関が設けられた。
歴代皇帝詳細は「愛新覚羅溥儀」を参照
皇帝大権

法律執行権

勅令発布権

官制制定・文武官任免権

大満洲帝国軍統帥権

宣戦・講和・条約締結権

栄典授与権

恩赦権

帝室

満洲国では日本の皇室との混同を避けるため、「帝室」と呼んで区別した[注釈 1]

溥儀とその遺臣たちは、この国家は清朝の復活であり、後世「後清」「北清」と称されるべき王朝という認識であった。しかし、1937年(康徳4年)に公布された帝位継承法第1條は「滿洲帝國帝位ハ康徳皇帝ノ男系子孫タル男子永世之ヲ繼承ス」とされ、溥儀を始祖とする新王朝であることが明記された。

そのため、満洲国帝室とされた者は、

溥儀(皇帝)

婉容皇后

譚玉齢側室・祥貴人、明賢貴妃)

李玉琴(側室・福貴人)

の4人だけで、父の醇親王載?や実弟の溥傑を始めとする愛新覚羅一族は帝族ではなかった。もっとも、もともと溥儀は清朝第11代皇帝光緒帝養子として帝位を継承しており、その時点で正式な醇親王家の人間ではなくなっていることも考慮しなければならない。また、満洲国建国と溥儀の即位に反対した醇親王を帝室から排除する政治的圧力がはたらくのはごく自然な流れでもあった。

皇后の称号について、溥儀の第二次訪日の際、日本の皇后との混同を避けるために「帝后」という呼称を使用してから、正式には常に帝后と呼びならされていたが、内廷(満洲国皇宮)内では依然として皇后と呼んでいた[1]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 但し、日本でも帝室林野局帝室博物館など「帝室」を冠した組織が存在した。

出典^ 『青い焔―満州帝国滅亡記』、26頁

参考文献

岡田武徳
『青い焔―満州帝国滅亡記』、大阪公論社、1965年8月。満洲国尚書府秘書官、満洲国総務処綜理科長、満洲国宮内府内務処長を歴任した岡田武徳の手記。

関連項目

傀儡政権

満洲国

満洲国宮内府

満洲国皇宮










満洲国の政府機構
君主

皇帝

皇帝直隷機関

宮内府

尚書府

参議府

侍従武官処

軍事諮議院

祭祀府



国務院国務総理大臣

法院

立法院

監察院

国軍

禁衛隊

江防艦隊

飛行隊

興安軍

靖安軍

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警察

海上警察隊

保安局

その他の機関

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