満州国陸軍軍官学校
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満州国陸軍軍官学校満州国陸軍軍官学校(1941年6月20日撮影)
種別国立軍学校
設立年1939年康徳6年)4月
所在地 満州国

新京特別市浄月区同徳台
閉鎖1945年康徳12年)8月
ニックネーム同徳台
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満州国陸軍軍官学校(滿洲國陸軍軍官學校、まんしゅうこくりくぐんぐんかんがっこう)は、満洲国新京特別市浄月区同徳台(現在の中華人民共和国吉林省長春市洋浦大街)に存在した、満洲国陸軍の軍官学校(士官学校)である。目次

1 名称

2 概要

3 訓練

4 歴代校長

5 出身者

6 終戦の混乱と7期生のシベリア抑留

7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 参考資料

9 関連項目

10 外部リンク

名称

略称は軍校[1]。満洲帝国陸軍軍官学校、あるいは単に陸軍軍官学校と称した。また、相武台陸軍士官学校)、振武台(陸軍予科士官学校)、修武台(陸軍航空士官学校)等と同様に、所在地に同徳台(どうとくだい)という地名が付けられたことから[2]、通称を同徳台、そこから同徳台陸軍軍官学校とも呼ばれた[3][4]日本語の「士官学校」を満語(中国語)では「軍官学校」といい[5]、「満洲国陸軍士官学校」ではなく「満洲国陸軍軍官学校」と称した。
概要

満洲国軍の教育機関は1932年大同元年)に設立された2年制の中央陸軍訓練処(のち奉天軍官学校に改称、1942年康徳8年)に陸軍訓練学校へ改編)に端を発する。中央陸軍訓練処は、在来(軍閥)の軍隊を主体として設立した満洲国軍を真の国軍とするため、国軍幹部養成の綜合的教育機関として設立された[6]

本校は1939年康徳6年)4月に、満洲国軍の正規課程に基づく軍官(士官)を育成する機関(士官学校)として、陸軍軍官学校令(康徳6年3月10日勅令第50號)に基づき、新京特別市郊外、二道河子より東方約8、吉林街道沿いの拉々屯台地(南崗台地)に設立された。日本人将校を育成するだけの学校ではなく、台湾人朝鮮人満洲人が同じ教育訓練を受けた士官学校である[注釈 1]。なお、蒙古系満洲人に対しては、1934年(康徳元年)7月に蒙古人軍官養成を専門とする興安軍官学校が設立され、1939年(康徳6年)10月に陸軍興安学校に改称した。成績優秀者には満洲国皇帝愛新覚羅溥儀から恩賜の金時計が与えられた[7]1941年(康徳8年)からは皇弟の愛新覚羅溥傑も教官を務めていた[8][9]

満洲国及び満洲国軍の解散後、跡地は国民政府に接収され、国共内戦後は中国人民解放軍戦車第三編練基地となる。現在同地には中国人民解放軍装甲兵技術学院(中国語版)が立つ。
訓練

生徒は午前6時起床、点呼終了後、まず最初に天皇の居住する東方(宮城)に向かって宮城遥拝した後、再度満洲国皇帝の居住する西方(満洲国皇宮)に向かって宮城遥拝して一日を始めた。午前は学科の授業を行い、午後は練兵場や屋外で撃剣銃剣術柔道歩兵戦闘技術などの術課教育を受けた[10]

日本人は「日系生徒」、それ以外は蒙古人、朝鮮人などもまとめて「満系生徒」として区別されていた。日系生徒と満系生徒はそれぞれ別の教育中隊に分けられた。満系生徒の場合、2個中隊8区隊に編成され、1個区隊(小隊)は30人から構成された[10]

満系生徒は中学校から試験を受ける事が出来たが、日系生徒は独自の試験がなく、内地の陸軍予科士官学校などの志願者から選抜されていた。日系生徒は満洲で予科卒業後、本科は全員が内地の陸軍士官学校(陸士)、陸軍経理学校陸軍航空士官学校へと戻り、日本軍の幹部候補生(幹候)とともに学んだ[11]。また満系生徒も予科卒業生のうち、選抜された成績優秀者は日本陸士編入特典が付与された[10]。これは中央陸軍訓練処にも有ったが、中央陸軍訓練処の生徒は満州国軍将校の身分で留学したため、一般生徒とは起居や教育内容が違っているのに対して、軍官学校の生徒は一般生徒に混入されて起居も教育内容も同じであった[12]
歴代校長

郭恩霖
(中国語版)

南雲親一郎:1939年(康徳6年)4月 -

山田鉄二郎:1942年(康徳9年)3月10日 - (元広島陸軍幼年学校校長)

出身者

第二次世界大戦後、満系生徒たる朝鮮人出身者の多くは軍事英語学校を経て南朝鮮国防警備隊、そして大韓民国国軍に入った。彼らは出身校や軍官学校で培った横の繋がりが非常に強く、その結果、同期で南朝鮮労働党に感化されて麗水・順天事件の折に粛軍運動の犠牲となった者も少なくなかったが[13][14]、粛軍を免れた者は日本陸士・幹候出身者同様に軍内部で出世する事が出来、また5・16軍事クーデターでの強力な支持基盤ともなった。

一方で、朝鮮建国準備委員会の指示でソ連占領地域に越北した南朝鮮国防警備隊将校の多くが満洲国軍出身者だった。当初正規の軍事訓練を受けた事で八路軍東北抗日聯軍出身者からは歓迎されていたが[15]、翌年になると旧満洲国軍出身者のほとんどが投獄されたという[16]


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