満奇洞
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満奇洞
洞口
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所在地岡山県新見市豊永赤馬(とよながあこうま)2276-2[1](槇[2][3]

満奇洞 - 地理院地図

満奇洞 - Google マップ

座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度58分18.3秒 東経133度35分0.3秒 / 北緯34.971750度 東経133.583417度 / 34.971750; 133.583417座標: 北緯34度58分18.3秒 東経133度35分0.3秒 / 北緯34.971750度 東経133.583417度 / 34.971750; 133.583417
総延長450 m[4]
発見江戸時代末期(天保[5]
洞口数1[4]
一般公開観光洞[4]
照明あり
訪問者数4?5万人[6]
他言語表記Maki-d?[4] (英語)
洞窟測量洞くつ団研グループ (1970)[7]
登録岡山県指定天然記念物[7]

満奇洞(まきどう)は、岡山県新見市阿哲台(豊永台)にある鍾乳洞(石灰洞)である[4][8]岡山県指定天然記念物[4][7]、岡山県高梁川上流県立自然公園特別地域に含まれる[9]二次生成物の発達した鍾乳洞として知られる[10]。槇の穴(槙の穴[11]、まきのあな)とも呼ばれる[12][13][14][15]
概要

江戸時代末期の天保の初年に発見された[14][注 1]。当時の洞口は現在よりもっと小さく直径33 cm(センチメートル)で[17]、赤馬(あこうま)[注 2]に住む狩人2人が逃げるタヌキを追い詰めた際に偶然発見したと伝わる[14][19]。もとは槇(まき)という地名()から「槇の穴」と呼ばれていたが、1929年昭和4年)10月にこの地を訪れた歌人の与謝野鉄幹晶子夫妻により「奇に満ちた洞」との意から「満奇洞」と改められたとされる[20][21][22][23][11]。なお、命名が本当に与謝野夫妻によるものなのかは異説もあり、1930年に夫妻が出した同人誌『冬柏』では「真木の洞…」と始まる[24]。また、1929年1月に長尾秀尾が「満奇の洞」を含む歌を詠んでいる[25]

岡山県の鍾乳洞ではもっとも早く存在が認知されたといわれ[26]、新見市内の洞窟群の中でも早くから開発が行われた[27][10]。岡山県の天然記念物に指定されている[28]
地質

満奇洞が分布する阿哲石灰岩は連続する秋吉帯の秋吉石灰岩や帝釈石灰岩と同様に陸源砕屑物を全く含まないため、約3億年前に赤道付近の太平洋海山海溝で崩壊しつつ海山周縁部と頂部に衝上断層で二分された巨大ブロックとして付加体中に取り込まれたものであると考えられている[29][22]。阿哲石灰岩は小型有孔虫コノドントフズリナ化石に基づいて下位から順に名越層、小谷層、岩本層、正山層、槇層の5層に区分される[29]。また、阿哲石灰岩にはこれとは別に北部相と南部相に区分され、前者は石灰質礫岩やチャートを頻繁に挟み、海山の周縁部に堆積したと推測され、後者は塊状石灰岩からなり、海山頂部の礁中央部に堆積したと推測されている[29]

満奇洞が開口する槇付近には層厚65 m(メートル)程度、最大層厚100 m の湯川層群槇層が分布する[30][31]。槇層では南部相と北部相の差は不明瞭で、主に石灰岩礫岩から成り、上位の寺内層(砕屑岩層)との境界付近ではチャートを挟む[31]

岡山県道50号線から槇に至る県道320号線との合流地点の手前には石灰岩が100 m 以上にわたって露出している[20]。これは石灰岩のみからなる石灰岩礫岩で、の淘汰は悪く、数 cm から20 cm 程度の角礫からなる[20]。堆積時代は中期ペルム紀で、礫として含まれる石灰岩には石炭紀ペルム紀初期など、堆積時より古い様々な年代の紡錘虫化石を含む石灰岩が多く含まれる[20][31]。槇層は Neoschwagerina douvillei Ozawa, 1925 の存在により特徴づけられる[32][33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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