満奇洞
洞口
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所在地岡山県新見市豊永赤馬
満奇洞(まきどう)は、岡山県新見市の阿哲台(豊永台)にある鍾乳洞(石灰洞)である[4][8]。岡山県指定天然記念物で[4][7]、岡山県高梁川上流県立自然公園特別地域に含まれる[9]。二次生成物の発達した鍾乳洞として知られる[10]。槇の穴(槙の穴[11]、まきのあな)とも呼ばれる[12][13][14][15]。 江戸時代末期の天保の初年に発見された[14][注 1]。当時の洞口は現在よりもっと小さく直径33 cm(センチメートル)で[17]、赤馬(あこうま)[注 2]に住む狩人2人が逃げるタヌキを追い詰めた際に偶然発見したと伝わる[14][19]。もとは槇(まき)という地名(字)から「槇の穴」と呼ばれていたが、1929年(昭和4年)10月にこの地を訪れた歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻により「奇に満ちた洞」との意から「満奇洞」と改められたとされる[20][21][22][23][11]。なお、命名が本当に与謝野夫妻によるものなのかは異説もあり、1930年に夫妻が出した同人誌『冬柏
概要
岡山県の鍾乳洞ではもっとも早く存在が認知されたといわれ[26]、新見市内の洞窟群の中でも早くから開発が行われた[27][10]。岡山県の天然記念物に指定されている[28]。 満奇洞が分布する阿哲石灰岩
地質
満奇洞が開口する槇付近には層厚65 m(メートル)程度、最大層厚100 m の湯川層群槇層が分布する[30][31]。槇層では南部相と北部相の差は不明瞭で、主に石灰岩礫岩から成り、上位の寺内層(砕屑岩層)との境界付近ではチャートを挟む[31]。
岡山県道50号線から槇に至る県道320号線との合流地点の手前には石灰岩が100 m 以上にわたって露出している[20]。これは石灰岩のみからなる石灰岩礫岩で、礫の淘汰は悪く、数 cm から20 cm 程度の角礫からなる[20]。堆積時代は中期ペルム紀で、礫として含まれる石灰岩には石炭紀やペルム紀初期など、堆積時より古い様々な年代の紡錘虫化石を含む石灰岩が多く含まれる[20][31]。槇層は Neoschwagerina douvillei Ozawa, 1925 の存在により特徴づけられる[32][33]。