ゆあさ まさあき
湯浅 政明
第31回東京国際映画祭にて(2018年10月)
生年月日 (1965-03-16) 1965年3月16日(59歳)
出生地 日本・福岡県
職業
アニメーター
アニメーション監督
アニメーション演出家
脚本家
デザイナー
ジャンル
テレビアニメ
アニメーション映画
活動期間1987年 -
主な作品
監督
.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
『マインド・ゲーム』(映画)
『夜は短し歩けよ乙女』
『夜明け告げるルーのうた』(映画)
『きみと、波にのれたら』(映画)
『犬王』(映画)
『ケモノヅメ』(TVアニメ)
『カイバ』(TVアニメ)
『四畳半神話大系』(TVアニメ)
『ピンポン THE ANIMATION』(TVアニメ)
『アドベンチャー・タイム』Episode「Food Chain」(TVアニメ)
『映像研には手を出すな!』(TVアニメ)
『DEVILMAN crybaby』(Webアニメ)
『日本沈没2020』(Webアニメ)
アニメーター
『クレヨンしんちゃん』シリーズ(テレビ・映画)
『ちびまる子ちゃん』シリーズ(テレビ・映画)
受賞
日本アカデミー賞
最優秀アニメーション作品賞
2018年『夜は短し歩けよ乙女』
その他の賞
アヌシー国際アニメーション映画祭
最優秀作品賞
2017年『夜明け告げるルーのうた』
テレビ部門 審査員賞
2020年『日本沈没2020』上海国際映画祭
最優秀アニメーション作品賞
2019年『きみと、波にのれたら』シッチェス・カタロニア国際映画祭
アニメーション部門 最優秀作品賞
2019年『きみと、波にのれたら』日本映画批評家大賞
アニメーション監督賞
2023年『犬王』紫綬褒章
2021年第59・72回毎日映画コンクール大藤信郎賞
第8・14・21回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞
第12回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞
2005年ファンタジア国際映画祭アニメーション部門優秀賞ほか4冠
2006年パリ・KINOTAYO映画祭大賞
第10回東京アニメアワードテレビ部門優秀作品賞
第2回TAAFアニメオブザイヤーグランプリ(TV部門)
テンプレートを表示
湯浅 政明'(ゆあさ まさあき、1965年3月16日 - )は、日本のアニメ監督、アニメ演出家、アニメーター。福岡県出身。株式会社サイエンスSARU共同創設者。2020年までは代表取締役。 子供の頃から絵を描いてそれを褒めてもらうのが好きで、幼稚園でTVアニメのキャラクターを描いて見せたりしていた[1]。家庭も放任主義で自由に落書きをしても怒られなかった[2][3]。 アニメーターになろうと思うようになったのは中学時代のこと[2]。漫画やアニメは物心ついた頃から好きでずっと見ていたが、中学校に入る頃にはそろそろ卒業かなと思っていた[3]。しかし、ちょうどその時期に『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)が日本中にアニメブームを巻き起こし、その後も宮崎駿の『ルパン三世 カリオストロの城』や出崎統の『エースをねらえ!』、さらにりんたろうの『銀河鉄道999』(すべて1979年)などの劇場公開でブームは続いた[1][4]。世の中に「大人になっても漫画やアニメを観ていいんだ」という空気も流れ始め、それを免罪符に将来はそちらの道へ進むことを決意した[3]。最初は漫画とアニメの区別もよくついておらず、漫画家になろうと思ったが、相次いで創刊されたアニメ雑誌でアニメの仕事内容が紹介され、そこでアニメーターがクリエーターとしてスターのように扱われているのを見て自分もなりたいと思うようになった[2][3]。高校はデザイン科に進む[3]。卒業したらすぐにアニメーターになるつもりだったが、周囲に説得されて九州産業大学に進学し、芸術学部美術学科で油絵を学んだ[3][4]。大学時代はバイトばかりしていたが、社員に誘われたり、人間関係が煩わしくなったりするたびに別の仕事を探すということを繰り返していた[3]。その時点ではその時経験したことに何も感じていなかったが、のちにアニメ業界で設定の仕事で色々なことを調べるようになった時、いきなり世の中のことがわかるようになり、バイト時代の状況も理解できて世界が開けたように感じたという[3][5]。大学卒業後、雑誌「アニメージュ」にアニメーターの募集広告を載せていた亜細亜堂へ入社する[4]。 最初はアニメーターからキャリアをスタートさせる。その頃は単にアニメの画を描きたいというだけで演出や監督にはまるで興味がなく、アニメーターで食べて行こうと思っていた[2]。
来歴
幼少期から大学生まで
アニメーター時代