湯徳章紀念公園
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湯コ章紀念公園
Tang De-jhang Memorial Park
[1][2][3]
(Tang Te-chang Memorial Park[4][5])
[註 1]
湯徳章紀念公園
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分類記念公園
所在地 台湾台南市中西区南門路13号
座標北緯22度59分33.53秒 東経120度12分18.4秒 / 北緯22.9926472度 東経120.205111度 / 22.9926472; 120.205111座標: 北緯22度59分33.53秒 東経120度12分18.4秒 / 北緯22.9926472度 東経120.205111度 / 22.9926472; 120.205111
面積m2
事務所台南市政府文化資産管理処有形文化資産組
事務所所在地台南市中西区中正路5巷1号3階
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湯徳章紀念公園(とうとくしょうきねんこうえん、繁体字: 湯コ章紀念公園、旧称大正公園)、または民生緑園(みんせいりょくえん、繁体字: 民生拷)は台湾台南市中西区にある交差点内の記念公園。市中心部を通る主要道路が交差する七叉路ラウンドアバウト(民生緑園円環)に囲まれており、台湾省道台20線の起点。永らく民生緑園とされてきたが、二・二八事件でこの地で銃殺刑に遭い犠牲となった弁護士坂井徳章(台湾名:湯コ章)の功績を後世に伝えるために改名された。
目次

1 歴史

1.1 防火空地

1.2 市区改正と公園整備

1.3 戦後から現在

1.4 孫文像破壊事件


2 交通

3 文化園区

3.1 現存しないもの


4 関連項目

5 脚注

6 出典

7 参考文献

8 外部リンク

歴史 1807年の台湾府城。上部のマーキングされた箇所は万寿宮と県文廟所在地で、そこから真下(西)、中央付近に「三界壇」の表記がある。

清朝統治時代にこの一帯は「牛屎?」あるいは「三界壇」と呼ばれており、台湾府城(中国語版)(台南城)の最高標高地点鷲嶺(中国語版)の南側傾斜地にあった。そのうち「牛屎?」は付近に御史衙があったことに由来する「御史?」の音が転じてのものとされている[6]

また清朝台湾府城の名士林朝英(中国語版)の邸宅がこの一帯にあった[7]。「三界壇」は道教の廟に由来し、現在の民生路付近にあったが、現存しない[8]
防火空地

ウィキソースに明治39年台南庁告示第131号の原文があります。
1906年台南庁告示131号附圖:右図斜線部分が公園の前身。中央の「銀行宿舎」は台湾銀行の宿舎で、その後台南州庁の用地となる。

1906年、台南庁(中国語版)が「火防其ノ他ノ必要ニ依リ」として出した告示第131号によると、三界壇を空地とし、同時に龍王廟街や下横街を街路拡幅(現南門路(中国語版)と忠義路(中国語版))とする計画だった。これが公園の前身である。

1907年に空地内で児玉源太郎の第4代台湾総督就任を記念する寿像が建立・落成した[9]。このため、当時を知る年配層の台南人は今でもこの場所を「石像」(白話字:chio?h-si?ng)と呼ぶことがある[10]

寿像は第二次世界大戦後に行方不明となったが、2015年12月に台湾歩兵第2連隊の駐屯地(現台南市北区にある市定古蹟「zh:原日軍?兵第二聯隊官舍群」)の地板の下から頭部が発見され[11]、鑑定の結果雪花石膏材質のものと判明している[12]。児玉像は文化局が保管し、修復後の公園には戻さないとしている[13]

湯徳章紀念公園
中華民国(台湾)文化資産
児玉源太郎像があった1910年代の公園。
登録名称湯コ章紀念公園
旧称大正公園
その他の呼称民生緑園(Min Sheng Green Park)
種類歴史性圓環
等級直轄市定古蹟
文化資産登録
公告時期2004年4月30日
位置台南市中西区公園路、中山路、青年路、開山路、南門路、中正路、民生路の交差点
建設年代明治44年(1911年

湯徳章紀念公園(民生緑園)
公園入口
各種表記
繁体字:湯コ章紀念公園
簡体字:?コ章?念公?
'"`UNIQ--templatestyles-0000000F-QINU`"'?音:T?ng Dezh?ng Jinian G?ngyuan
通用?音:T?ng Dejh?ng Jinian G?ngyuan
注音符号:?? ?? ?? ?? ??? ??? ??
発音:タン デヂャン ジンニェン ゴンユェン
台湾語白話字:Thng Tek-chiong ki-li?m kong-hn?g
日本語読み:とうとくしょうきねんこうえん
英文:Tang Te-chang Memorial Park
Minsheng Green Park
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市区改正と公園整備

1911年に公布された「台南市区改正計画」で、城壁を撤去し幹線道路を放射状に整備し、欧米型の区画概念を導入する計画が始まった[14]。この計画では最終的に台南を格子状の道路と複数のラウンドアバウトで網羅し、児玉像のある防火空地もラウンドアバウトに変え、都市計画の中心点として7本の道路をここから放射状に市街地の各地を結び、周辺に当時の行政機関だった台南州庁やその他大小の官公庁を集中配置するというものだった。

1916年台南市が名称を制定する際、ここは石像にちなんで「児玉公園」となる計画だった[15]。しかし最終的に当時の所在地の表記だった大正町(中国語版)に由来する「大正公園」と定められた。

戦後、台湾が国民政府に移管されると、全都市の住所表記が改訂され、公園も日本式から中華式の「民生緑園」となった。この名称は半世紀以上使われ、現在までに最も定着した名称となっている。
戦後から現在

1947年中国国民党による国民政府の深刻な腐敗施政への反抗をきっかけに二二八事件が発生。日台混血の弁護士湯コ章(日本名:坂井コ章)は治安維持のために、蜂起する市民から武器を回収するなど鎮圧の口実を軍に与えないよう奔走したものの、反乱罪の罪状を問われここで銃殺刑に遭った。ただし後年に台湾高等法院台南分院はコ章に無罪を宣告している。詳細は「坂井徳章」を参照

その後、公園内に孫文(孫中山)の銅像が設置された。由来については2説ある。1964年、台南市政府が日本に残留していた中国美術家劉獅(1913-1997)に31万ニュー台湾ドルで塑像製作を依頼したというもの。


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