ゆかわ れいこ
湯川 れい子
生誕湯野川 和子
(1936-01-22) 1936年1月22日(88歳)
職業音楽評論家・作詞家・翻訳家・USEN放送番組審議会委員長
受賞1986年度 日本女性放送者懇談会賞[1]
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湯川 れい子(ゆかわ れいこ、1936年〈昭和11年〉1月22日[2][3] - )は、日本の音楽評論家・作詞家・翻訳家・USEN放送番組審議会委員長。
本名・湯野川和子(ゆのかわ かずこ)[4]が田村駿禮(たむら たかのり)と結婚して田村和子に成る。のちに離婚したが、本名はそのままにしている。
吾妻麗子名義で女優として活動したこともある[5]。東京都目黒区生まれ・山形県米沢市育ち。東京都世田谷区在住。
人物[4]。忠一の従妹(父・湯野川忠世の妹の娘・礼子)は山本五十六の妻[6]。海軍大将・黒井悌次郎は大叔父(父方の祖母の弟)[6]。米沢藩家老・千坂高房は母方の祖先[6]。その他、父方の曾祖父の湯野川忠国
東京府青山師範学校附属国民学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)在学中(1944年4月12日)に父が肺炎のため死去。疎開先・山形県米沢市にて1944年6月から1947年3月まで過ごして東京に戻り、?友学園を卒業する。高校時代から現代俳優協会の研究生となり、1953年には日本青年館で舞台『未亡人』に出演し、女優としてデビュー[8]。また山本薩夫監督『太陽のない街』に「夫人部員」の端役として出演した他[8]、今井正監督『ここに泉あり』に女教師役で出演[9]。日活配給のB級映画『天下の若君漫遊記』にも端役で出演した[10]。芸能プロダクション「土曜会」に所属し、有島一郎の髷物コメディ『ありちゃんのおかっぱ侍』というテレビ番組に「芸者・駒子」役で短期間レギュラー出演した他[11]、芸人として米軍基地を慰問していたこともある[12]。芸能活動のかたわら、当時恋人だった大学生の影響で有楽町のジャズ喫茶「コンボ」に通い、ジャズに親しむ[13]。
1959年秋、湯川れい子名義(当時の肩書きは「CMタレント」)[14]による『スイングジャーナル』誌への投稿が大きな反響を呼んだことがきっかけで[15]同誌編集部員の岩浪洋三から声がかかり、インタビュアーならびにジャズ評論家として1960年に同誌にて執筆開始。その後ラジオのDJやワイドショーのコメンテーターなどでメディアに自ら出演。作詞、翻訳、ノンフィクション作家など活躍の場を広げる。日本作詩家協会会長、日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事、日本大衆音楽文化協会理事も務める。日本ペンクラブ会員。
1965年、エミー・ジャクソンの歌った「涙の太陽」をR.H.Rivers名義で英語で作詞し、当時日本コロムビアの洋楽レーベルであったCBSから発売された。R.H.Riversとは「れい子・湯川」を直訳した「レイコ・ホット・リバース」の略である[16]。同時期に青山ミチのヴァージョンのために日本語詞も書き、その日本語詞がのちに安西マリアに歌われることになる。安西マリア、サンディー、田中美奈子、メロン記念日、川本真琴などがカバーした。
エルヴィス・プレスリーの熱烈なファンでありライナーノーツを数多く書いている。ラジオのDJ歴は数十年である。
邦楽で好きなアーティストは桑田佳祐、長渕剛[17][18]など。長渕の『Captain of the Ship』『家族』『ふざけんじゃねぇ』のライナーノーツも書いている。
最初の夫は湯川が小学校6年生の時から湯川の実家に下宿していた男性で一橋大学卒の会社員[19]。1950年代、女優時代に入籍し[20]、1966年に離婚[21]。二番目の夫の田村駿禮(=たかのり、のち熾鴻と改名。当時は電化製品販売会社経営で、のち宝石商となる)とは1972年のエルビス・プレスリーのハワイコンサートが縁で知り合い、エルビスを結婚証明書の証人として1973年8月10日に結婚したが[22]、1993年に田村の愛人問題と隠し子が発覚し、1998年に離婚した[23]。
鳩山幸・細川佳代子・下村満子と共にコーラスグループ「スワンシスターズ」を結成し音楽活動を行っている。また、亀渕友香をコーチとしたゴスペルグループ「東京女声合唱団」を結成。常に40名ほどのメンバーとボランティアに近い演奏活動をしている。
原発問題・放射能問題についての団体「オペレーション・コドモタチ」の賛同者でもある[24]。