湯島聖堂博覧会
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湯島聖堂博覧会
昇斎一景作「元卜昌平阪聖堂ニ於テ博覧会図」
イベントの種類博覧会
通称・略称文部省(博物館)博覧会
初回開催1872年3月10日 - 4月29日
開催時間午前9時から午後4時
会場湯島聖堂大成殿
主催文部省博物局
出展数798点
来場者数192,878人
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湯島聖堂博覧会は1872年明治5年)に当時の東京府湯島聖堂で行われた博覧会。東京で行われた、また文部省博物局が主催した初の博覧会である。それ故「文部省(博物館)博覧会」とも呼ばれる[1][2]
背景

明治維新以来、日本の近代化とともに博覧会は国家的事業として重視されるようになっていった。1867年慶應3年)には幕府が初めて第2回パリ万国博覧会に参加し、1871年(明治4年)には大学南校で物産会が開催された。ただしこれはあくまで「物産会」という名称を超える内容のものではなかった。これを鑑みて大学は物産会の開催と並行して同年4月25日に「集古館」の建設を献言したところ、1ヶ月後の5月23日には古器旧物保存方が発せられる運びとなった。ここには歴史博物館の創設に尽力した町田久成の意見の影響が見られる[3][2]

これをうけて翌1872年(明治5年)1月には文部省[注釈 1]が博覧会に関する布告文を発した[4]。博覧会ノ旨趣ハ天造人工ノ別ナク宇内ノ産物ヲ蒐集シテ其名称ヲ正シ其用法ヲ弁シ人ノ知見ヲ広ムルニ在り就中古器苗物ニ至テハ時世ノ推遵制度ノ沿革ヲ追徴ス可キ要物ナルニ因リ嚮者御布告ノ意ニ原ツキ周ク之ヲ羅列シテ世人ノ放観ニ供セント欲ス然モ其各地ヨリ徴集スルノ期ニ至テハ之ヲ異日ニ待タサルヲ得スシテ現今存在ノ旧器ハ社寺ニ遺伝スル什物ノ外其用ニ充ツ可キ物少ナク加フルニ皇国従来博覧会ノ挙アラサルニ因リ珍品奇物ノ官庫ニ貯フル所亦若干許ニ過キス因テ古代ノ器物天造ノ奇品漢洋舶載新造創製等ヲ論セス之ヲ蔵スル者ハ博物館ニ出シテ此会ノ欠ヲ補ヒ以テ世俗ノ陋見ヲ啓キ且古今ノ同異ヲ知ラシムルノ資助ト為スヲ請フ ? 文部省

こうして本来の「博覧会」の実現を目指して、また1873年(明治6年)に開催される予定だったウィーン万国博覧会の準備も兼ねて開催されたのが湯島聖堂博覧会であった[5]

ちなみに会場となった湯島聖堂は江戸時代には昌平坂学問所がおかれていた。
概要

1872年(明治5年)3月10日、湯島聖堂大成殿で文部省博物局によって開催された[5]。出品数は徳川家献納の御物18点のほか古物や標本、国内産物など計798点が展示された[2][1]。当初は会期20日間で一日あたりの入場者1,000人を予定していたが、連日3倍の3,000人以上が押し寄せたため会期を再三延長し、結局4月30日に終了した。3月13日には明治天皇が行幸し、同月27日には昭憲皇太后が行啓した[1]

博覧会の様子は昇斎一景が「元卜昌平阪聖堂ニ於テ博覧会図」と『東京名所三十六戯撰』に、また一曜斎国輝は「古今珍物集覧」にその様子を描いた。また東京日日新聞は1872年3月付けで「衆庶ハ這盛会ノ光庇ニヨツテ大イニ見テ拡メ、自然開花ニ薫陶スベシ、之レ実ニ隆世ノ浴恩ニシテ人民ノ幸福ナラズヤ」と報じている[2]
展示品昇斎一景「元昌平坂博覧会」(『東京名所三十六戯撰』のうち)。正面には名古屋城の金の鯱が飾られ、観衆が驚いている。明治5年湯島聖堂博覧会関係者の記念写真、背後に展示物の一つであった名古屋城の金鯱が見える(横山松三郎撮影)[注釈 2]明治5年湯島聖堂博覧会関係資料:左から観覧券、広告、預り証書


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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