湖南汽船
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琵琶湖汽船株式会社
Biwako Kisen Steamship Co.,Ltd.
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
520-0047
滋賀県大津市浜大津五丁目1番1号
設立1886年12月23日
業種海運業
法人番号7160001001669
事業内容船舶による運輸、船舶の運航及び管理の受託、遊技場・遊戯施設及びスポーツ施設の経営、ホテル・旅館及び食堂・売店の経営、有料道路の料金徴収業務及び駐車場の経営。
代表者代表取締役社長 川添智史
資本金9700万円
純利益874万5000円
(2023年3月期)[1]
純資産▲16億9796万2000円
(2023年3月期)[1]
総資産17億6356万1000円
(2023年3月期)[1]
従業員数58名(ほかに嘱託契約など117名)
主要株主京阪ホールディングス
主要子会社びわこフードサービス・琵琶湖汽船サービス
外部リンクhttps://www.biwakokisen.co.jp/
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琵琶湖汽船株式会社(びわこきせん)は、滋賀県大津市に本社を置き、琵琶湖遊覧船の運航などを行っている企業。京阪グループの一員。
概要

日本最大の湖である琵琶湖上において遊覧船事業を行うほか、滋賀県立びわ湖フローティングスクール「うみのこ」(湖の子)運航受託や飲食業[注釈 1]および、有料道路(近江大橋)の料金徴収業務受託なども行っていた。
歴史大津港に入港する「ミシガン紺屋関港跡(大津なぎさ公園内) - 大津市山田港跡 - 草津市杉江善右衛門の記念碑(山田港跡付近) - 草津市
前史

江戸時代以前の琵琶湖の水運は和船により運航されていたが、1869年(明治2年)3月、琵琶湖上ではじめての汽船(蒸気船)である「一番丸」が就航した。従来からの和船運航者や宿泊業者などから妨害を受けたものの、同じ運営者によって政府に出願された「二番丸」が許可されると他もこれに倣うようになり、長距離航路が続々と就航した。しかし、競争による弊害や鉄道連絡への対応などから各社が合同し1882年(明治15年)、太湖汽船(初代)が設立された。 ※詳しくは、太湖汽船#歴史を参照。

一方、湖南(堅田以南)のローカル航路にも多くの事業者が存在した。1872年(明治5年)、大津の米屋[2]だった谷口嘉助などが紺屋関会社(のち、紺屋関組→紺屋関汽船)を設立、紺屋関港[注釈 2]を設置し山田港[3]と結ぶ航路を拓いた。当初、この航路は和船(丸子船)5隻で運航されていたが1876年(明治9年)、谷口は山田渡船仲間の杉江善右衛門と提携し渡船組合の航安組を設立[4]、汽船「千歳丸」を借用のうえ紺屋関-山田間に就航した。さらに同年、新造船2隻を就航させた。

このほか、浜大津港・紺屋関港を使用した汽船山田組(のち、山田汽船)・三港社・金蔵汽船[5]や、石場から矢橋[6]への航路を運営した石場組の各社・組が競合していたが、谷口は山田の住民・常乗り・旅の衆の3種に分類した運賃の設定[7]など誘客のためのサービスに努めた。このほか、汽船の増加による交通増加のため[2]1886年(明治19年)に草津と山田を結ぶ道路が改良されたこともあり、山田港を利用する各社・組が競争上有利となった。なお、矢橋航路を運航する石場組は、輸送量が減少した1882年(明治15年)に隻数を減らし減便したことがかえって旅客の逸走を招き、1883年(明治16年)6月には同組に属する矢橋汽船会社の経営が行き詰まる事態となった[8]

1886年(明治19年)、従来から提携していた山田汽船と紺屋関汽船が合併し湖南汽船が設立され競争力がさらに強化された。同社と競合した三港社は寄港地を増やす[9]などの施策をとったことから湖南汽船の利用が減少したため、同社は新航路の就航[10]により対抗したが、このような過当競争状態に陥った結果1887年(明治20年)、三港社が倒産。ここに湖南のローカル航路事業者の統一がはかられた。

なお、経営規模は太湖汽船(初代)のほうがはるかに大規模ではあったが1887年(明治20年)、滋賀県当局の裁定によって太湖汽船(初代)が湖北(堅田以北)を含む航路、湖南汽船が湖南を営業区域とされたため、両者が併存することとなった。
湖上交通の統一へ

1889年(明治22年)、湖東線(現在のJR東海道本線)が開通すると輸送量が減少したため、草津駅と山田港の間に連絡用の馬車の運行を行ったが、のちに人力車組合と提携して連絡輸送を行った。なお、草津駅と山田を結ぶ鉄道路線の計画もあったが進展はなかった[11]

1894年(明治27年)、大津町からの補助を得て大津と石山・坂本を結ぶ遊覧船の運航を開始したが、1903年(明治36年)に開催された大阪博覧会に乗じた旅客誘致(「近江八景めぐり」)など、遊覧船事業が徐々に活発となるとともに営業成績も向上していった[12]。また、1911年(明治44年)春から神戸大阪京都石山寺・南郷・坂本間で国鉄との船車連帯輸送を、1920年(大正9年)には京阪電気鉄道(京阪)との船車連帯輸送を開始している。このほか1925年(大正14年)、自ら設置した南郷遊園地の開業と翌年のモーターボートによる新造船就航など、観光事業者としてさらなる発展をみた。これら積極策も相まって、輸送人員の増加率は太湖汽船(初代)と比べてより大きくなっている。統計に残る1899年と、後述する両社の合併直前の1926年までの旅客輸送量を比較すると、太湖汽船の約1.5倍に対し湖南汽船は約2.5倍の増加である[13]

一方、営業エリアの拡大を狙う京阪は、連帯輸送(前述)のほか1926年(大正15年)には船舶建造のための融資[14]を行うなど、徐々に関係を深めていった。1920年(大正9年)、京阪が湖南汽船に出資し、のちに子会社となった。また、京阪の出資による大津-長命寺-竹生島航路の就航や、湖南汽船が湖東汽船を設立し彦根-竹生島航路を就航[注釈 3]させるなど航路を拡げていった。

一方、太湖汽船(初代)は東海道本線のほか江若鉄道の開通などで斜陽となったことから1927年(昭和2年)、大津電車軌道(現在の京阪石山坂本線)などと合併し、琵琶湖鉄道汽船と改称したが、鉄道事業の不振や湖南汽船社長の仲介などもあり1929年(昭和4年)、京阪と合併。同時に船舶部門は湖南汽船に現物出資され、同社は太湖汽船(2代目)に改称した。さらに1951年(昭和26年)、現在の社名である琵琶湖汽船に改称した。

鉄道が未発達の頃は一般交通機関として利用されたが、のちに鉄道やバスなどの競合交通機関が現れると、その役割を遊覧船に移していった。ただし湖上遊覧目的ばかりではなく、湖北へ向かう往路夜行便の「スキー船」や「水泳船」などの運航が京阪との一貫輸送により行われていたほか、草津方面への生活航路(穴村航路・山田航路)が第二次世界大戦後も長らく運航していた。
沿革

1869年(明治2年)3月 - 琵琶湖で初めての汽船「一番丸」が就航する。

1876年(明治9年)7月 - 山田渡船仲間の有志などにより、渡船組合の航安組を設立する。

1882年(明治15年)3月10日 - 金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)から長浜駅までの鉄道が開通する。

1882年(明治15年)5月1日 - 藤田組と江州丸会社・三汀社が合同し、太湖汽船(初代)を設立する。大津?長浜間に日本初の鉄道連絡船開始(日本国有鉄道百年史や琵琶湖汽船100年史より)。

1883年(明治16年)5月15日 - ←史実誤認→長浜駅から浜大津駅までの連絡運輸を開始する(日本初の鉄道連絡船)。

就航した第1太湖丸、第2太湖丸は、国内初の鋼鉄船であった。


1885年(明治18年) - 草津と山田を結ぶ道路が改修される。

1886年(明治19年)12月23日 - 紺屋関汽船と山田汽船が合同し、湖南汽船を設立する。


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