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湊川神社
拝殿
所在地兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分53.5秒 東経135度10分32秒 / 北緯34.681528度 東経135.17556度 / 34.681528; 135.17556 (湊川神社)
湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区多聞通にある神社。祭神は楠木正成。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。 楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。寛永20年(1643年)に尼崎藩主となった青山幸利は、領内に正成の戦死の地を比定し供養塔を立てた。幸利の自ら定めた墓所もこの周辺に存在する。元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立した。(『広厳寺(楠寺)』項目も参照)以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。 慶応3年(1867年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、1868年(明治元年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、1869年(明治2年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、1872年(明治5年)5月24日、湊川神社が創建された。 境内には、楠公にゆかりのあるものを納めた宝物殿や能楽堂である神能殿や結婚式などのための楠公会館などがある。また兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所がある。 (祭神名の表記は『湊川神社誌』による) 主祭神である楠木正成は、河内国に本拠地をおいたいわゆる武将で、1331年(元弘元年 / 元徳3年)に後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎌倉幕府倒幕に貢献する。建武の新政後の足利尊氏の反乱において、九州から京都に向かう尊氏を摂津国湊川の地で迎え打ち、新田義貞らとともに戦うが、1336年(延元元年 / 建武3年)5月25日(新暦7月12日)に敗退し自刃する。
概要
祭神
主祭神:贈正一位橘朝臣(楠木)正成公
配祀神:
贈従二位楠木正行卿
贈正三位楠木正季卿
菊池武吉命・江田高次命・伊藤義知命
箕浦朝房命・岡田友治命・矢尾正春命
和田正隆命・神宮寺正師命・橋本正員命
冨田正武命・恵美正遠命・河原正次命
宇佐美正安命・三石行隆命・安西正光命
南江正忠命
本殿合祀:摂社甘南備神社(祭神:大楠公御夫人滋子刀自命)