湊川神社
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年8月)

湊川神社

拝殿
所在地兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分53.5秒 東経135度10分32秒 / 北緯34.681528度 東経135.17556度 / 34.681528; 135.17556 (湊川神社)座標: 北緯34度40分53.5秒 東経135度10分32秒 / 北緯34.681528度 東経135.17556度 / 34.681528; 135.17556 (湊川神社)
主祭神楠木正成
社格等旧別格官幣社
別表神社
創建1872年明治5年)
札所等神仏霊場巡拝の道第70番(兵庫第5番)
例祭7月12日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}湊川神社
テンプレートを表示
1961年(昭和36年)当時の湊川神社。市電の架線が見える。1902年(明治35年)

湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区多聞通にある神社。祭神は楠木正成。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格別格官幣社で、現在は神社本庁別表神社
概要

楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。寛永20年(1643年)に尼崎藩主となった青山幸利は、領内に正成の戦死の地を比定し供養塔を立てた。幸利の自ら定めた墓所もこの周辺に存在する。元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立した。(『広厳寺(楠寺)』項目も参照)以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。

慶応3年(1867年)に尾張藩徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、1868年明治元年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、1869年(明治2年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、1872年(明治5年)5月24日、湊川神社が創建された。

境内には、楠公にゆかりのあるものを納めた宝物殿や能楽堂である神能殿や結婚式などのための楠公会館などがある。また兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所がある。
祭神

主祭神:贈正一位橘朝臣(楠木)正成公

配祀神:

贈従二位楠木正行卿

贈正三位楠木正季卿

菊池武吉命・江田高次命・伊藤義知命

箕浦朝房命・岡田友治命・矢尾正春命

和田正隆命・神宮寺正師命・橋本正員命

冨田正武命・恵美正遠命・河原正次命

宇佐美正安命・三石行隆命・安西正光命

南江正忠命


本殿合祀:摂社甘南備神社(祭神:大楠公御夫人滋子刀自命)

(祭神名の表記は『湊川神社誌』による)

主祭神である楠木正成は、河内国に本拠地をおいたいわゆる武将で、1331年元弘元年 / 元徳3年)に後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎌倉幕府倒幕に貢献する。建武の新政後の足利尊氏の反乱において、九州から京都に向かう尊氏を摂津国湊川の地で迎え打ち、新田義貞らとともに戦うが、1336年延元元年 / 建武3年)5月25日(新暦7月12日)に敗退し自刃する。大楠公と呼ばれる。

配祀神の楠木正行は主祭神・楠木正成の子息である。正成が大楠公と呼ばれるのに対して、楠木正行は小楠公と呼ばれる。正行は大楠公の死後も南朝側として戦い、河内の四條畷の戦いで破れて自刃。1890年(明治23年)4月には正行を主祭神とする四條畷神社が創建されている。

配祀神の楠木正季は主祭神・楠木正成の弟である。兄とともに湊川の戦で敗れる。『太平記』では、兄と刺し違えて死んだとされ、死に際に「七生滅敵」と誓ったと描かれている。

『太平記』では、正成正季の兄弟とともに一族16名も自刃したとしており、これら16柱の神霊も正季らと供に配祀されている。そのうち菊池武吉菊池武時の七男で、菊池武重の弟である。兄とともに新田義貞の軍で戦っていたが、楠木正成らの自刃の場に居合わせたためにともに自刃したという。1924年大正13年)3月17日、従三位が贈られている。
社名

「湊川神社」の社名は、鎮座地の地名である湊川に由来するものである。正成を祀る神社は一般に「楠社」とか「楠公社」と呼ばれていたので、「湊川神社」の社名が決まるまでは、この神社も「楠社」と呼ばれていた。

社名の候補としては、「大楠霊神社」案と「南木神社」案と「湊川神社」案があった。「大楠霊神社(おおくすたまじんじゃ)」案は創建が公式に発表される前の1868年(明治元年)3月末に平田派国学者矢野玄道が提案したもので、すぐに政府の内評を得ている。矢野玄道によると、近江国に「大楠神社」なる神社が既にあるので、それを真似てさらに「霊」の字を追加したという。「南木神社(なみきじんじゃ)」案は堺県知事小河一敏1870年(明治3年)4月に提案したもので、やはり同名の神社が存在することによる。その神社の伝承に寄れば、この社号は後醍醐天皇のにより与えられたものだとされている。当時としては天皇が定めたということは大きな意味を持つことであり、これによって小河知事は「南木神社」案を強く主張している。「湊川神社」案は、神祇官官吏の八木雕の提案によるもので、地名をつけることで覚えやすくなるだろうとしている。

以上の3つの案があったが、政府は八木の「湊川神社」案を採用した。八木案採用の理由は定かではないが、矢野玄道の「大楠霊神社」案が廃案になったのは、近代化する国家の動きに反して復古を唱える平田派が同時期に維新政府内より排除されたことと関連があると思われる。あるいは国家の創建によるものなので、他の正成を祀る神社と同様の名前を付けず、差異を出そうとしたのかもしれない。湊川神社に続いて建てられた人物顕彰神社の多くも地名を社名につけるこの例を踏襲することとなる。
歴史

幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを自らに重ね、彼らを理想とした。特に楠木正成はその忠臣の筆頭に挙げられ、多くの維新志士が彼の崇拝者となり、その祭祀を行った。明治維新の意義は、公的には神武創業に回帰するという意味が岩倉具視らの強い主張により与えられたが、実際の倒幕運動は神武創業というよりはむしろ建武の新政を理想として行われたものであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:110 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef