港区立青南小学校
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港区立青南小学校
Seinan Elementary School

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分48.52秒 東経139度42分58.14秒 / 北緯35.6634778度 東経139.7161500度 / 35.6634778; 139.7161500座標: 北緯35度39分48.52秒 東経139度42分58.14秒 / 北緯35.6634778度 東経139.7161500度 / 35.6634778; 139.7161500
過去の名称東京市青南尋常小学校
国公私立の別公立学校
設置者 港区
設立年月日1906年明治39年)
9月3日
共学・別学男女共学
学期2学期制
学校コードB113210300137
小学校コード203270
所在地107-0062
東京都港区南青山四丁目21番15号
外部リンク ⇒公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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港区立青南小学校(みなとくりつ せいなんしょうがっこう)は、東京都港区南青山四丁目にある公立小学校である。
概要青南小学校と神宮外苑赤坂方面の高層ビル群

明治時代以降、青山将官官僚などが居住する地域として大きく変容するのに伴い、隣接する青山小の児童数も急激に膨張、そのため1906年(明治39年)に青山小の一部の児童を引き取る形で創立された。そうした地域柄もあり、進学熱はこの頃より高く、文京区誠之小などと並び、府立一中(現・日比谷高校)や四中(現・戸山高校)など上級学校への進学率が高い学校として知られていた。この頃より越境入学生も後を絶たず、1921年(大正10年)着任の下川兵次郎校長[1]の時代以降の戦前においてさえ[2]、上級学校を目指して進度別授業を展開していた時期もあった[3]

1931年(昭和6年)、中村草田男が母校の青南小学校を訪ねた折、「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだ。その句碑が現在、学校正面玄関前に建っている。

戦時中の逸話として、山本五十六が戦死した際、校庭にて海ゆかば斉唱と共に[4]、その子女らが在学中、またかつて通っていた関係で、他校が著名な将官が亡くなると改称したのに倣い、一時「山本国民学校」と改称する案がでて、真剣に討議されたこともあった[5]

戦後も当校からの青山中学 - 日比谷高への進学コースは、いわゆる番町小 - 麹町中学コースに擬えて、東大へ進学するエリートコースとされたこともあった。いわば公立小御三家として「番町・白金・青南」などとかように謳われたこともあり、港区内では現在でも白金小赤羽小などと並び、学区外からの越境通学者が多く、また著名人の子弟も見られる。
沿革

1906年明治39年)9月3日 - 東京市青南尋常小学校として設立。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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