温浴
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入浴する人々宇宙ステーションスカイラブ3号内のシャワーで水浴びする宇宙飛行士ジャック・ルーズマ(1973年)

入浴(にゅうよく)は、主に身体清潔を保つことを目的として、湯や水蒸気などに主にで身体を浸すことを指す。入浴施設の構造物に関しては風呂を参照
入浴の歴史
中東・中央アジア

古代ユダヤ人にとって入浴は社会的な義務であり、入浴によって体の清潔を保つことはモーセの律法にも含まれている。また、タルムードでは「ユダヤ人は、公共浴場のない町には住まないこと」など、入浴に関する細かな規定がされている。紀元前1055年にダビデ王がエルサレムに建設を開始した公共浴場「ミクヴァ」はソロモン王の代になって完成した。古代のミクヴァは6メートル四方の地下室で、体だけでなく精神を浄化する場所でもあった。ミクヴァは中東以外にもユダヤ人が住む先々の町で造られた[1]

紀元前1世紀ごろから、中央アジアで蒸し風呂があったと思われる。これは、高温に加熱した石に水をかけることで蒸気を発生させて入浴を行った。燃料などが少なくて済み手軽に使用できたため、冷水による入浴に適さない地域で広まった。中東では、この蒸し風呂が公衆浴場ハンマーム)となった。またロシア北欧に伝わりサウナ風呂の原型ともなった。次のヨーロッパの項目で解説されているが、古代ローマ帝国全土に広まった公共浴場は、イスラームによる北アフリカの地中海沿岸地方とシリア地方の征服後もイスラーム圏で保持され、中東・イランでは現代に至るまで続いている。公共浴場は、モスク・市場と並んでイスラーム都市の基本構成要素となった。
インドモヘンジョダロの大浴場

紀元前2600年頃のインダス文明モヘンジョダロや、ハラッパー等の諸都市は、大規模な公衆浴場が完備していた。古代インド十六大国マガダ国の首都王舎城(現在のビハール州ラージギル)は温泉が多く、王舎城に創された仏教最初の寺院である竹林精舎の近くに、温泉がある仏教僧院(Tapodarama)があった。湯治を目的としていた思われる。現在、跡地にはヒンドゥー寺院が建てられるが、温泉は今も健在である。ヒマラヤ山脈があるインド北部の、ジャンムー・カシミール州ヒマーチャル・プラデーシュ州ウッタラカンド州などは、温泉が多く、宗教施設の中や、その周辺に源泉があることが多い。パールヴァティー渓谷にある温泉は有名である。

ヒンドゥー教の多くは1日の始まりに、寺院の貯水池や川で沐浴を行う。あるいは毎日、仕事を終えたあと、1時間ほど時間をかけて全身を洗い浄める[2]。ただし、沐浴する川の水が著しく汚染されている場合もある[3]シク教にも沐浴の習慣があり、アムリトサルにあるシク教の総本山・黄金寺院周辺では沐浴がよく行われている。
ヨーロッパカラカラ大浴場跡 床は美しいモザイクのタイル張りであった

古代ギリシャ人はきれい好きではあったが、ローマ人ほど入浴に熱心になることはなかった。文明初期には暖かいお湯に浸かることは退廃的なことだと考えていたが、紀元前4世紀頃のギリシャの都市には公共浴場が存在した。デルフォイには大規模な温泉施設があり、プラトンの時代にはギムナシオンに浴場が併設されていた[4]

ローマ帝国時代には、各植民都市に公共浴場が作られた。入浴様式は蒸し風呂の他に、広い浴槽に浸かる形式もあった。217年につくられたローマのカラカラ大浴場は、2000人以上が同時に入浴できたといわれている。古代ローマの入浴は、官営病院を持たなかったローマ人の感染予防施設としても使われた。詳細は「古代ローマの公衆浴場」を参照

ローマの公共浴場は時代の流れとともに、大衆化し社交場・娯楽施設としての意味が増してきた。一方で売春や飲酒蔓延、怠惰の温床にもなった。

北ヨーロッパフィン人サウナという公衆浴場で入浴した。古代のサウナは社会的にはの場であり、死者は葬儀の前にサウナに入れられ、悪魔に取り憑かれたとされた者はサウナで悪魔祓いを受けた。

初期キリスト教の厳格な信者からはローマ式の入浴スタイルは退廃的で贅沢であるとされ、敬遠されるようになった。不潔さこそ聖人の要件であり、自己犠牲、敬虔な振る舞いであると信じられた。入浴するにしても服を脱ぐ事は論外であり、異教徒と同じ浴槽に入ることも考えられないことであった[5]「楽園の泉」15世紀、イタリア

中世初期に衰退した公共浴場に代わり木製で円形のたらいが普及した。2人以上が入ることができる大きさで、経済的、労力的な理由から複数の人間が同時に入ることが常だった。入浴は贅沢の一種であり、貴族たちの間では招いた客を夜会の前に入浴させる「ドンネ・アラベール」と呼ばれる習慣が流行した。

十字軍の時代、東方からハマームの慣習が伝わり、かつての浴場跡などに公共浴場が再建された。しかし、羽目を外す者が後を絶たず、堕落や私生児が社会問題となった。教会は「公共浴場での入浴は不道徳で異教徒的」として非難し、教会の鐘によって男女の入浴時間を分けるなど積極的に介入した。一方、ムーア人の影響下にあったイベリア半島では、洗練されたハマームでの入浴習慣が続いていたが、キリスト教徒による国土回復運動によって失われた。

共同浴場は、コレラペスト梅毒などの伝染病の温床となり、1350年の腺ペストの流行により多くの公共浴場が閉鎖された。それ以後の共同浴場は実質的に売春宿だけとなり、16世紀には全面的に禁止されるに至った。結果、キリスト教徒の間では社交的入浴は享楽の象徴とみなされて忌み嫌われ、自宅での個人風呂が主流になっていった。

ルネサンス期のヨーロッパ(特にフランス)では「水や湯を浴びると病気になる」と信じられた。ヴェルサイユ宮殿のバスタブは建設された当初は使われていたものの、その後はマリー・アントワネットが嫁ぐまで使われなかった。王侯貴族は入浴の代わりに頻繁にシャツを着替え、香水で体臭をごまかすようになった。これがパリなどのフランスの大都市部の公衆衛生の悪化の原因の一つとなった。

18世紀、イギリスジョン・ウェスレーによって起こされたメソジスト派の「清潔は神性に次ぐ」という主張と、「水治療法」という民間療法の流行によって公共浴場や入浴が見直される機運が高まった。コレラの大流行の反省からロンドンの上下水道が完備され、1875年にイギリスで「公衆衛生法」ができて入浴が奨励されるようになり、徐々にバスタブによる入浴が行われるようになった。さらに19世紀、イギリスでシャワーが発明される。以後、シャワーによる入浴が世界に広まった。
日本

もともと日本では、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。紀元3世紀の中国大陸の国で書かれた歴史書に日本人の徹底した潔癖性についての記録がある。

仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。


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