温成皇后(おんせいこうごう、天聖2年(1024年) - 皇祐6年1月8日(1054年2月18日))は、北宋の第4代皇帝仁宗の寵妃(追贈皇后)。姓は張氏。 河南府永安県の人。進士の張堯封と妻の曹氏のあいだの娘。伯父の張堯佐の娘は英宗の妃嬪の張修容。 容貌が美しく、魅力的な性格を持っていた。8歳で父は死去し、伯父の張堯佐には扶養を拒否された。母の曹氏は張氏を売り、蹇氏と再婚した。張氏は斉国大長公主
経歴
慶暦8年(1048年)、宮中の衛卒が乱を起こしたとき、曹皇后の働きで鎮圧された。しかし仁宗は曹皇后に対して疑いを抱き、その功は張氏に帰して、張氏は貴妃に進んだ[1]。それから、張氏はさらに寵愛を独占するようになった。皇后と同じ扱いをうけ、一族は官爵を授けられた。
皇祐6年(1054年)正月、張氏は死去した。仁宗は深く悲しんだ。張貴妃は皇后を追贈されて「温成」と諡され、園陵を建立され、宗廟に祀られた。張氏の3世の先祖も温成皇后陵に附葬された。
女子
荘順帝姫
荘定帝姫
荘慎帝姫
逸話
北宋の時代、翰林学士たちは皇帝、皇后、妃嬪に「新春貼子」(年賀詩)を献じた。皇祐6年(1054年)新春、温成皇后が崩じたため、学士たちの年賀詩がなかったが、仁宗はそのことで腹立ちを感じた。欧陽脩はすぐさま詩を作り、「昔聞海上有仙山、煙鎖楼台日月間。花似玉容長不老、只応春色勝人間」と詠って、仁宗を喜ばせた。
脚注^ 徽宗の時代まで、張氏は北宋で唯一の貴妃であった。他の貴妃たちは本人死後の追贈、あるいは次代の皇帝による尊封であった。
伝記資料
『皇宋十朝綱要』
『宋史』
『宋会要輯稿』
表
話
昭憲杜太后* / 孝恵賀皇后* / 孝明王皇后 / 孝章宋皇后 / 淑徳尹皇后* / 懿徳符皇后* / 明徳李皇后 / 元徳李皇后* / 章懐潘皇后* / 章穆郭皇后 / 章献劉皇后 / 章懿李太后* / 章恵楊太后* / 仁宗郭皇后 / 慈聖曹皇后 / 温成張皇后* / 仁宗張皇后* / 宣仁高皇后 / 欽聖向皇后 / 欽成朱皇后* / 欽慈陳太后* / 昭慈孟皇后 / 昭懐劉皇后 / 顕恭王皇后 / 顕粛鄭皇后 / 明達劉皇后* / 明節劉皇后* / 顕仁韋皇后* / 仁懐朱皇后
南宋
憲節?皇后 / 憲聖呉皇后 / 成穆郭皇后* / 成恭夏皇后 / 成粛謝皇后 / 慈懿李皇后 / 恭淑韓皇后 / 恭聖楊皇后 / 寿和謝皇后 / 度宗全皇后
*:追封皇后