温恢
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温恢

持節・護羌校尉・涼州刺史
出生生年不詳
并州太原郡祁県
?音W?n Hu?
曼基
主君曹操曹丕
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温 恢(おん かい、181年? - 225年?)は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。は曼基。并州太原郡祁県の人。父は?郡太守の温恕。
略歴

豪族の家に生まれたが、15歳の時に父を亡くした。その時は亡父の棺を守りながら、故郷に帰ったという。財産家であったが、乱世なのだから財産を持っていてもどうなるか分からないと言い、親族に亡父が遺した財産をすべて分与したという。そのことが評価されて孝廉に推挙され、郎中となった。間もなく、廩丘県令として赴任し治績を挙げた。以降も?陵県令・広川県令・彭城相・魯国相など地方官を歴任し、曹操の評価を受け召還されて、丞相主簿に任じられた。

208年劉馥が死去すると、その後任として揚州刺史となり、再び地方に赴任した。曹操から丹陽太守だった揚州出身の?済を補佐として付けられ、合肥の守将張遼楽進と相談し事に当たるよう、言い含められた。

219年孫権率いる軍勢が合肥に侵攻した。温恢は?州刺史の裴潜に対し、揚州方面よりも関羽がいる荊州方面を警戒すべきと忠告した。温恢は「川が増水しているのに、曹仁殿は城中に孤立し、危険に備えておられない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難を引き起こすだろう」と語っている。関羽は曹仁が守る樊城を攻撃し、于禁を捕虜とした。この時、裴潜と豫州刺史の呂貢に対し、援軍として赴くよう詔勅が出たが、温恢は「すぐに襄陽方面への出兵命令が出るだろうから、そちらに備えるべき」と忠告した。裴潜は輜重を置いて軽装兵で出発することにしたが、温恢の予想があたったため、面目を保つことができた。

220年曹丕(文帝)の代になると再び召還され、侍中に昇進した。やがて魏郡太守に任命された。

数年後、持節・護羌校尉・涼州刺史として赴任するも、その途中で病に臥せてしまい、45歳で逝去した。

やがて嫡子が関内侯に封じられたが、早世したためいったん家系が断絶したという。後年に、その弟である温恭が関内侯に封じられ、亡兄の後を継いだという。

また温恢の友人の一人だった孟建諸葛亮の親友)は、後任の刺史として涼州に赴任した時、温恢のことを懐古し「彼は優れた政治家だった」と評価したという。
親族


温生
(早世)

温恭


温恭の子


温羨
 

温憺
その他三人の男子
曾孫
温羨の子


温祗


温允

温祐

温憺の子


温?東晋明帝の近侍)

玄孫
温?の子


温放之
(字は弘祖。使持節・輔国将軍・交州刺史を歴任し、始安公に封じられた)

温式之(字は穆祖。散騎常侍をつとめた)

温瞻

温光










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝

武宣卞皇后

文昭甄皇后

文徳郭皇后

明悼毛皇后

明元郭皇后

巻6 董二袁劉伝

董卓

李?




袁紹

袁譚

袁尚


袁術

劉表

巻7 呂布臧洪伝

呂布

張?

陳登


臧洪

陳容


巻8 二公孫陶四張伝

公孫?

公孫度

公孫康

公孫恭

公孫淵


陶謙

張楊

張燕

張?

張魯

巻9 諸夏侯曹伝

夏侯惇

韓浩

史渙


夏侯淵

曹仁

曹純


曹洪

曹休

曹肇


曹真

曹爽

曹羲

曹訓

何晏

ケ?

丁謐

畢軌

李勝

桓範


夏侯尚

夏侯玄


巻10 荀ケ荀攸賈?伝

荀ケ

荀ツ

荀?(中国語版)

荀?(中国語版)


荀攸

賈?

巻11 袁張涼国田王?管伝

袁渙

張範

張承


涼茂

国淵

田疇

王修

?原

管寧

王烈

張?(中国語版)

胡昭


巻12 崔毛徐何?鮑司馬伝

崔?

毛?

徐奕

何?

??



司馬芝

司馬岐(中国語版)


巻13 鍾?華?王朗伝

鍾?

鍾毓


華?

王朗

王粛

孫叔然


巻14 程郭董劉?劉伝

程c

程暁


郭嘉

董昭

劉曄

?済

劉放

孫資


巻15 劉司馬梁張温賈伝

劉馥


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