渥美郡(あつみぐん)は、愛知県(三河国)にあった郡。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、田原市および豊橋市の大部分(豊川・朝倉川以南)にあたる。 当該区域の面積は378.25km2、375,905人(平成22年国勢調査)。[1] 7世紀後半の評制度化では、飽海評(飽海評、渥美郡)と呼ばれた。 郡名は阿曇連(あづみのむらじ)に由来すると伝えられている。伊勢国に近いため伊勢神宮の荘園である御厨・御園が多く存在した。垂仁天皇時代には、国造が三河国渥美郡の神戸を朝廷に寄進している(『太神宮諸雑事記』第一)。また『吾妻鑑』によると、建久10年3月23日(1199年4月19日)乙卯に、参河の国飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良胡御厨が存在している[1]。 中世には一色氏が支配したが、応仁の乱後は田原城や二連木城を築いて渥美郡の支配力を強める戸田氏に対し、16世紀の初頭からは隣郡の宝飯郡から牧野氏が今橋城を築いて戸田氏と争った。度重なる今橋城(吉田城)の争奪戦に西三河の松平氏まで絡んでくるが、東から駿河国・遠江国を治める今川氏が松平氏・戸田氏・牧野氏をまるごと従えるようになったため、今川氏による支配で落ち着いた時期もある。 室町戦国時代には、奥郡という呼び方もある。文明6年11月1日の如光弟子帳で、「奥郡野田」と見える(上宮寺文書 / 岡崎市史6)。その他、戦国期から江戸初期の史料では、大津(老津)・神戸・伊良湖・堀切・弥熊などが奥郡の地名として見え、渥美半島一帯が奥郡と称されていたものと推定される。天文20年5月7日の今川義元判物によると「参河国奥郡神戸郷南方名職之事、右如前前公事年貢等令取沙汰、百姓職永可勤之并船二艘事」が本多正忠に宛行われている(摩訶耶寺文書/静岡県史料5)。 江戸期には吉田藩や田原藩や畑村藩などの変遷を経て廃藩置県を迎えた。 郡の北端(宝飯郡との境界)を流れる現在の豊川(とよがわ)は過去、時代ごと地域ごとにいくつかの名称があったとされ、古代における最下流域の渡津郷付近では「飽海川(あくみがわ)」と呼ばれていたことが、承和2年(西暦835年)に発令された『太政官符』によって確認できる[2]。 知行村数村名
郡域
歴史
古代から近世まで
近世以降の沿革
『旧高旧領取調帳』に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地[3]が存在。 (1町134村)
幕府領中泉代官所13村●二川村、●大岩村、上細谷村、下細谷村、小島村、寺沢村、東七根村、万場新田、赤沢村、東伊古部村、東堀切村、●○伊良湖村、保美村
旗本領13村西七根村、●大崎村、●城下村、西伊古部村、高塚村、●堀切村、江比間村、八王子村、馬伏村、石神村、村松村、高木村、中山村
中泉代官所・旗本領1村小塩津村
藩領三河吉田藩[4]1町
65村吉田城下[5]、●飽海村、●羽田村、●野田村、吉川村、三相村、●馬見塚村、高須新田、土倉新田、下野新田、青竹新田、富久縞新田、牧新田、茅野新田、加藤新田、中村新田、原村、中原村、●雲谷村、大脇新田、飯村、藤並新田、森田新田、芦原新田、佐藤村、山田村(現・豊橋市)、小松新田、●高足村、高足新々田、●小池村、瓦町村、●橋良村、●小浜村、●仁連木村、上岩崎村、下岩崎村、手洗村、田尻村、平川新田、上牟呂村、●中牟呂村、富田新田、松島新田、●下牟呂村、向草間村、●草間村、松井新田、上原新田、●野依村、切反ヶ谷村、仏餉村、東植田村、西植田村、津田新田、●北大津村、●南大津村、森崎新田、谷熊村、神吉新田、数原新田、片神戸村、百々村、●杉山村[6]、●花ヶ崎村、三ノ輪村[7]、高足原尾先新田[7]
三河田原藩32村長仙寺村、久美原村、院内村、●今田村、●本前村、水川村、●谷ノ口村、●東ヶ谷村、●新美村、●志田村、●赤松村、●青津村、●市場村、●漆田村、●田原村、吉胡村、浦村、波瀬村、片浜村、白谷村、仁崎村、●上野田村、●大久保村、●加治村、大草村、若見村、●高松村、●下野田村、●芦村、●赤羽根村、越戸村、●和地村
美濃野村藩[8]6村日出村、伊川津村、古田村、畠村、向山村、亀山村
幕府領・藩領中泉代官所・田原藩1村浜田村
旗本領・田原藩1村宇津江村
その他寺社領2村小松原村、山田村(現・田原市)
慶応4年
4月29日(1868年5月21日) - 幕府領・旗本領が三河裁判所の管轄となる。
6月9日(1868年7月28日) - 三河裁判所の管轄区域が三河県の管轄となる。
明治2年
6月24日(1869年8月1日) - 三河県の管轄区域が伊那県の管轄となる。
8月7日(1869年9月12日)
伊那県の管轄区域が駿河静岡藩領となる。