この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "渥美勝吉"
凡例渥美 勝吉
時代安土桃山時代
生誕弘治3年(1557年)
死没元和2年6月6日(1616年7月19日)
別名源五郎、源吾郎
主君徳川家康(大須賀康高与力)
氏族渥美氏
父母父:渥美重経
子正勝(紀州藩士)
テンプレートを表示
渥美 勝吉(あつみ かつよし)は、安土桃山時代の武士。別名に「頸切り源吾」。 渥美家は元は今川家に仕えていたとされる。のち徳川家康に仕え、源五郎重経と太郎兵衛友吉は姉川の戦いに参加している。友吉は武勇で知られ、姉川の戦いでは槍が折れたのちも素手で奮戦し、さらに数人を討取った。三方ヶ原の戦いにおいて重経は戦死。 「徳川殿は良い人持ちよ 服部半蔵は鬼半蔵 渡辺半蔵は槍半蔵 渥美源吾は頸切り源吾」と唄われた次代の源五郎(源吾郎)・渥美勝吉は、若き頃より武功者として知られ、槍の達人であり、数々の武功から「頸切り源吾」「首獲り源五」という異名で知られた。遠江国横須賀城主・大須賀康高の与力として徳川家の旗本先手役を務めた。 天正2年(1574年)5月、徳川方であった高天神城に武田勝頼が攻め寄せた、18歳の勝吉ら徳川の遠州勢は、守将の小笠原信興らと2ヶ月間籠城するが、援軍もなく激戦の末に開城した。勝頼は徳川に帰還を希望する将兵は寛大にこれを許した。この中に勝吉も含まれる。 天正6年(1578年)に武田方であった高天神城の抑えとして、家康は康高に命じて横須賀城を築城し、同時に康高の与力として勝吉ら高天神城からの帰還組を配属した。坂部広勝や久世広宣、竹田右衛門
出自
経歴遠江国城飼郡新野池新田に対する掟書(『久世廣宣外三名連署掟』慶長12年1月11日、個人蔵)[1]。坂部広勝、竹田右衛門、久世広宣と連署しており、「渥源五」[2]と記され黒印が押されている
天正6年(1578年)11月、高天神城の様子を窺うために源五郎ら数名が斥候に出されたが、同じく斥候として巡回していた武田方の騎馬兵を含めた20余名が遭遇戦となった。この際、源五郎が出合い頭に騎兵2人と徒歩4人を瞬殺したとされ、高天神城近くに「首切り坂」という古跡が残っている。
天正6年(1578年)8月、徳川勢が高天神城下に放火を行い、城からは武田勢が打って出てきたために合戦となった。この際、一番槍久世三四郎(久世広宣)、二番槍渥美源五郎、一番首坂部三十郎(広勝)という働きがあったと伝わる。翌9月に武田勝頼が高天神城への輸送目的に進出してきたため、家康と徳川信康らが馬伏塚城に入城。武田勢は小笠原信興を先鋒として横須賀城に攻め寄せたが、この際も渥美源五郎が一番首をあげた。天正7年(1579年)にも高天神城下に侵入し田畑を焼いて廻り、武田方の城兵と大須賀勢が交戦した。この時も横須賀衆は首級五十七を取り、家康から賞賛されている。天正8年(1580年)、横須賀城が完成し、7月に家康が3千の兵を率いて横須賀城に入り包囲網を敷いたことで、高天神城は孤立無援となった。康高以下横須賀衆750人は対高天神城の主力として中村砦など「高天神六砦」のいくつかを守備した。10月、徳川勢はさらに城を囲む完全包囲の陣を敷き、高天神城は飢餓に苦しみ将兵は続々と倒れて行った。翌天正9年(1581年)3月22日夜、生存していた将兵は城将の岡部元信と共に乾坤一擲の突撃を敢行した。康高や源五郎ら大須賀勢も激戦に参加し、横須賀七人衆の同輩久世広宣は打ち合う剣の火花で敵味方の顔を区別した、と伝わる。城方は壊滅し、これにより高天神城は落城した。
この後も大須賀康高と横須賀七人衆は、徳川麾下の勇猛な精鋭部隊として、各地の戦いに参戦している。
天正17年(1589年)6月の康高の死後も横須賀衆は大須賀氏に配属されたまま、後継の忠政が若いために横須賀衆はその補佐も行った。天正19年(1591年)、忠政は上総国久留里城に転封となり横須賀七人衆もこれに従った。関ヶ原の戦い後に大須賀氏は横須賀の旧領に復帰することとなり、横須賀七人衆も同地に戻った。同時に七人衆には家康からそれぞれ300石が与えられた。
元和元年(1615年)の大坂の陣ののち、忠政の子の忠次が、縁戚で後継者の途絶えた上野館林藩榊原家を相続することとなり、大須賀家に付属していた家臣は榊原家に引き取られる者、他家に仕官する者、徳川直参になる者などに分かれ、大須賀家が廃絶・絶家となった。